国際人権基準と私たち
2016年2月に、女性差別撤廃条約の監視機関である国連女性差別撤廃委員会1は、5回目となる日本の第7次・8次政府報告書審査をおこなう。政府報告書の審査そのもの、そして政府報告書の審査を通じて女性差別撤廃委員会が各国に対し、改善すべき事柄について勧告する「最終見解」は、世界の多くの女性に希望や勇気を与えてきた。
女性差別撤廃条約は、1979年に国連総会で採択された。日本は1980年にデンマークのコペンハーゲンで開かれた第2回世界女性会議にあわせておこなわれた署名式で条約に署名し、1985年に批准した。
「条約」と聞くと、私たちの生活から遠い世界の文書のように思えるが、実はそうではない。日本政府は、女性差別撤廃条約を批准する際に、いくつかの法律と制度の改正をおこなった。代表的なものとして、①男女雇用機会均等法の制定、②家庭科の男女共修、③国籍法の改正がある。これらは女性差別撤廃条約の理念と規定を日本の法律・制度と合致させるためにおこなった改正であり、その意味で、「条約に入る」ことは私たちの生活に具体的で実質的な変化をもたらす2。
女性差別撤廃条約は、家族関係、雇用、意思決定への参加、女性に対する暴力3等、様々な分野における女性の権利侵害の是正を求めているが、重要な点として、第2条(f)および第5条(a)で、女性に対する差別に結びつく「偏見」「慣行」「慣習」の修正や廃止を規定していることが挙げられる。ジェンダー・ギャップ指数では、常に一ケタ台の順位を獲得し、アジアではトップの位置にあるフィリピンでも、NGOや研究者の女性たちは、「女性に対する差別的な意識や扱いが今でも残っている」と口を揃える。経済・政治参加に関し、統計上、日本とは比べものにならないほど格差が縮小しているフィリピンでもそのような状況であることを考えると、女性、男性に関する固定観念(ステレオタイプ)に代表される男性優位、女性差別的な意識が変わるには息の長い努力が必要であることが理解できる。日本では、男女の役割分担に関する意識を強化するようなCMや表現がメディアに満ちあふれている。そのなかには、全く今の現実にはそぐわない、既に過去のものになってしまった固定観念も数多く含まれている。そうした意識を丁寧に問い直し、是正を働きかけることの重要性も条約は教えてくれる。
このように、条約には、私たちの日々の生活を具体的に変える規定が数多く含まれているが、その実現のためには、政府が条約によって求められる義務を認識し、条約を実施することが必要である。そして、それを促すために、政府報告書審査という制度が設けられている。条約の締約国になった国は、4年に一度、政府報告書を女性差別撤廃委員会に提出することが求められ、委員会は各国の報告書を審査し、改善すべき点を「最終見解」として発表する。1988年、1994年、2003年、2009年に続く第5回目の審査が、冒頭で記したように、2016年2月におこなわれる。
女性差別撤廃条約には、各国における条約実施を保障することを目的とする「個人通報制度」という、もう一つのしくみもある。これは、条約によって守られるべき権利を侵害された個人が、直接、女性差別撤廃委員会に訴えることができる制度で、1999年に実現した。現在、女性差別撤廃条約加盟国189ヵ国中、106ヵ国が「個人通報制度」を定めた選択議定書に批准しているが4、残念ながら日本は批准していない。どの人権条約の個人通報制度にも日本は加入しておらず、各人権条約機関から加入を検討するよう何度も勧告されている。日本の人権状況を改善するための重要なツールを私たちは手にしていないという現実がある。
近年、世界の様々な女性団体が、冒頭で記した政府報告書審査に際し、委員会の最終見解に自分たちの課題が盛り込まれるようロビー活動をおこない、課題の解決につながる取り組みに結びつけるために積極的に働きかける動きが活発になっている。UN Womenのような国連機関も、前身であるユニフェム(国連女性開発基金)時代からこうした動きを支援するようになり、「途上国」の女性団体をジュネーブに派遣し、それぞれの国の政府報告書審査に際して女性差別撤廃委員にロビー活動をおこなうことを支援し、それによって委員たちが政府報告書だけでは知り得ない女性の現実に触れ、最終勧告が充実した内容になるよう働きかけてきた。
日本にも、女性差別撤廃条約に励まされ、自分たちの権利の回復を勝ち取った女性たちがいる。住友電工・住友化学の男女賃金差別裁判を闘った女性たちであり、「憲法14条の趣旨に反する」としながら「当時の公序良俗に反するものではない」とする理不尽な第一審判決に屈することなく裁判を闘うことができた背景には、女性差別撤廃委員会でのロビー活動を通じて、自分たちの状況が、女性差別撤廃条約に基づき是正されるべき問題であることに気づき、また他国の女性たちと触れあうなかで自分たちの主張が真っ当なものであることに確信をもつようになっていったことが挙げられる。
採択後、35年ほどが経過する女性差別撤廃条約だが、女性に対する暴力への取り組み、意思決定への参加、実質的平等の重要性、暫定的特別措置の活用等、条約実施を推進し監視する女性差別撤廃委員会の活動に助けられ、世界各国で様々な取り組みが進み、多くの重要な知見が蓄積されてきた。そして、近年、理解が深まっている分野として、複合差別への対応の重要性が挙げられる。女性であることに加え、世系、民族、障害、性的指向、宗教等の理由によりマイノリティであることによって受ける複合的な差別に目が向けられ始めたのは当事者の女性たちの粘り強い努力と働きかけによるところが大きい。女性として一括りにしては不可視化されてしまう問題が数多く存在することが認識されるようになってきたのは重要な変化である。
それらを受けて、女性差別撤廃委員会は、2003年日本の審査の最終見解において、次回の政府報告書に日本におけるマイノリティ女性の状況についてデータを示すように求めた。また、2009年審査の最終見解でも、再度、マイノリティ女性の状況に関する情報やデータを集めることを求め、そして差別撤廃のための具体的なプログラムと成果に関する情報を提供するよう勧告している。
今回の政府報告書では、パラグラフ103から110でマイノリティ女性に関する記述があるが、具体的な取り組みと成果について十分な情報が提供されているとは言いがたい。委員会がマイノリティ女性の状況を知るためにはロビー活動が重要だと痛感するし、そのためには具体的なデータがあることが効果的になる。複合差別が解消しない限り男女平等が実現したとは言えないという認識に立ち、マイノリティ女性と他の女性、そして男性がともに審査の行方を見守りたい。そして勧告を変化につなげたい。
11月28日「国連審査とマイノリティ女性2015」の参加者によるグループ討議
※11/28『シンポジウム:国連審査とマイノリティ女性2015-知らんかったら変われへん』で講師を務めた筆者が再構成
注
1. 23人の専門家で構成されている。日本からは林陽子弁護士が2008年以来、委員を務めており、2015年2月に委員長に選出された。女性差別撤廃委員会史上、初めての日本人の委員長である。
2. とは言え、現在のジェンダー・ギャップ指数を考えると、たとえば男女雇用機会均等法が雇用の場における女性の地位の向上にどれほどの貢献をしたかについては批判的な検討が必要である。
3. 「女性に対する暴力」については、条約には明示的な規定はないが、一般勧告19号(1992年)により、締約国に取り組みを求めている。
4. United Nations Treaty Collectionのウェブサイトより(2015年12月8日アクセス)