特集 なぜスカーフ論争なのか
イスラームのイメージについて問われた時、女性の頭髪や体がヴェールで覆い隠された姿を思い浮かべる人は少なくないだろう。イスラーム世界における女性の服装には、顔全体を覆い隠すブルカやニカブ、顔だけ出して全体を覆うチャドル、頭髪を隠すヒジャブ(これがいわゆるスカーフにあたる)などがあり、その形状や色彩は国や地域、民族などによって実に多様である。サウジアラビアやイランのように一部の国や地域では法的に女性の服装を規定しているが、多くの国においてスカーフを被るか否かの選択は個人の自由裁量となっている。そのため、ムスリマ(イスラーム教徒の女性)の中にもスカーフを着用する者/しない者がおり、その理由もさまざまである。それにもかかわらず、主に欧米諸国や日本をはじめとする非イスラーム世界においてスカーフは「女性差別」「女性への抑圧」の象徴とされ、彼女らがなぜスカーフを被るのか、その宗教的背景やムスリマ自身の声はあまり知られていない。
スカーフ着用の宗教的根拠となるのが聖典クルアーン(コーラン)であるが、実は女性の服装にかんする記述は少なく、しかも抽象的である。女性の服装について、聖クルアーンには次のように記述されている。
「慎み深く目を下げて、陰部は大事に守っておき、外部に出ている部分は仕方がないが、その他の美しい所は人見せぬよう。胸には蔽いを被せるよう。」(第24章31節)注1。
そして、夫や両親、義理の父親といった親族、性的な欲求を持たない男や幼児以外に自分の体を見せないようにと続けられている。また、次のような記述もある。
「これ、預言者、お前の妻たちにも、娘たちにも、また一般信徒の女たちにも、(人前に出るときは)必ず長衣で(頭から足まで)すっぽり体を包み込んで行くよう申しつけよ。こうすれば、誰だかすぐわかって、しかも害されずにすむ。」(第33章59節)
このように聖典クルアーンには“美しいところを見せないように”とあるだけで、神(アッラー)は具体的に髪の毛をスカーフで覆うよう命じているわけではない。しかし、女性の髪もまた魅力的で男性を誘惑するものであり、隠しておくべき“美しいところ“(=性的なもの)だとする考え方があり、また、イスラームにおいて人間は弱い存在で誘惑に負けやすいものだとされる。そのため、予め魅力的な部分を隠しておくことで女性が男性から性的な眼差しを向けられることや、男性が誘惑に負けて罪を犯してしまうことを妨げようとしているのである。同時に、女性を顔立ちや体型といった容姿ではなく内面で判断するように促す側面もある。
実際に何を“外部に出ている部分”、“美しいところ”とするのか、その解釈はイスラーム国家、宗派間、個人などによってさまざまであり、そうした解釈の違いが先述のような服装の多様性を生み出している。伝統または習慣として顔や頭髪を隠すムスリマもいれば、宗教的な意味を見出し、義務としてスカーフを着用するムスリマもいる。頭髪は隠すべき恥部だと考えるムスリマにとって、女性解放の名の下にスカーフを脱げというのは自身の恥部をさらけ出せと言われているのと同じことに他ならない。
また、欧米諸国に移住したムスリム移民のなかで、自発的にスカーフを選び取る女性たちが大勢いることにも目を向ける必要がある。ここで筆者が調査研究していたドイツの例をみてみたい。ドイツもまたムスリム移民を多く抱える国の一つであり、その数は約400万人にのぼる。2008年にドイツ連邦移民難民局(BAMF)がドイツ在住のムスリムを対象とした初の大規模調査を実施しているが、それによるとスカーフを着用する理由として最も多かったものは「宗教的な義務だから」(92.3%)であり、続いて「落ち着きを与えてくれる」(43.3%)、「公の場でムスリムだと表明するため」(36.0%)という結果であった。一方で、「パートナーからの要望/勧め」、「家族からの要望/勧め」とするものは、それぞれ6.7%、5.8%にとどまっている注2。この調査の結果をみて明らかなように、ムスリム女性の多くが自らの意思で積極的にスカーフを着用する道を選んでいるのである。トルコ系移民3世のムスリマである私の友人も、スカーフをまとうことで神様(アッラー)とのつながりを感じ、自分が強く思えるのだと話してくれたことがある。
近年ドイツにおいてスカーフを着用するムスリマは増加傾向にあるが、その背景にはホスト社会からうける抑圧、差別があるとされる。差別体験や社会での居場所のなさに直面した時、心の平安をイスラームに求めるムスリム移民は男女問わず少なくない。ドイツ社会という異文化の中でイスラームがムスリマたちのアイデンティティの中核となり、スカーフは「抑圧のシンボル」というよりドイツ側からのイスラームへの嫌悪や差別に対する「抗議の印」という意味を増しつつあるとの指摘もある注3。社会からの排除に対する抗議としてスカーフ着用を選びとる女性の姿は、ドイツに限らずフランス等においても見ることができる。
さまざまな種類のスカーフ イラスト:山根絵美
このように、スカーフの≪内側≫には多様な宗教的、文化的、社会的背景が存在している。しかしながら、スカーフの≪外側≫からの眼差しは、そうした多様性やムスリマ自身の意思を顧みることなく、スカーフを着用しない女性こそ近代的で自立した個人だとし、スカーフを被る女性は自立しておらず抑圧された存在だとする二項対立の図式でしか彼女たちをとらえようとしない。確かに、父親や夫からの強制や周囲の圧力によって自らの意思に反してスカーフを被らざるを得ない女性がいることも事実である。フランスやドイツなどの移民二世代以降のムスリマの中には、そうした抑圧から逃れたいとスカーフを脱ぎ捨てる人たちもいる。しかし、男性から強制されているスカーフを脱ぐことによって性差別から解放され、晴れて自由になれるのだという“解放の理論”は、例え自己決定によってスカーフを着用したとしても、「それは被抑圧状態にあるうえでの決定であり、あなたは真に解放されていないのだ」と、その意思を否定してしまう。結局のところ、「抑圧か解放か」の堂々巡りであり、「スカーフを脱ぐ」という選択肢しか尊重されないのである。≪我々≫の持つ≪民主主義≫が常に正しいと断定し、イスラーム世界は≪非近代的≫で劣位にあるというバイアスを取り外さない限り、スカーフは女性抑圧の象徴であり続けるだろう。イスラームの名のもとにスカーフの着用を強制することも、「女性解放」の大義名分を掲げてスカーフを脱がせることも、そこにムスリマ本人の意思は不在であり、その構造は同質の暴力性を持っている。
残念なことに、スカーフは昨今の高まるイスラーム・フォビア(嫌悪)やヘイトの格好の標的にされ、さらには「原理主義者」という新たなレッテルまでも貼られてしまった。スカーフをまとう女性は過激な思想を持った反社会的な存在だとされ、ムスリマたちはこれまで以上に差別や暴言を浴びせられている。
こうした現状から、なかには外出時など公の場でスカーフの着用を諦めざるを得ない女性たちも出てきている。
スカーフを女性抑圧のシンボル化とすることにも、イスラーム・フォビアやイスラーム・ヘイトにも、その根底にはイスラームに対する圧倒的な無知がある。特に日本の場合、現在10万人を超すムスリムが暮らしているが、まだまだイスラームは身近な存在ではない。欧米諸国のようなホスト社会とムスリムとの軋轢が生れてしまう前に、今こそイスラームについて多角的な視点から学ぶべき時なのではないだろうか。
注1:クルアーンの引用は全て井筒俊彦訳(1958)『コーラン』(中)岩波文庫による。
注2:BAMF(2009)Muslimisches Leben in Deutschland S.206(スカーフを着用していると回答した16歳以上の女性による。複数回答形式)
#3注3:近藤順三「現代ドイツのスカーフ問題」『社会科学論集』第45号、69-101頁