特集 チェルノブイリから30年、福島から5年
2016年、チェルノブイリ原発事故(1986年4月26日)から30年、東日本大震災及び福島第一原発事故(2011年3月11日)から5年を迎えた。原子力技術は、「平和利用」の原子力発電所も、核兵器に代表される軍事利用も、使われる技術は表裏一体である。原子力災害は、被害が生じるまでの経緯や被災者保護をめぐる政府の対応などはそれぞれに異なるものの、いずれの場合も、一度放射線が放出されると、その拡散により、大気や海、土壌などの環境を放射線で汚染し、人体に深刻な健康被害を引き起こす。また、災害発生後、当該土地に居住していた人たちは、汚染地以外への避難や移住を直接的あるいは間接的に強制される。
今回は、原子力災害被災者の保護をめぐる問題について、その歴史的な流れと、福島第一原発事故の被災者の権利保障を取り上げる。その際、国際人権基準に基づいて、日本政府にその対応の抜本的な見直しを求める「国連グローバー勧告」と、2016年2月に行われた国連女性差別撤廃委員会の日本政府報告審査を概観したい。
原子力災害被災者の保護をめぐっては、日本国内では広島・長崎への原爆投下が1つの契機となっており、71年経った今も原爆症認定にかかる訴訟が続いている。しかし、残念ながら、その取り返しのつかない被害の大きさと放射線の脅威が広く認識されたにもかかわらず、国際人権基準に基づいて被災者を保護するという国際的に大きな機運は当時生まれなかった。
一方、チェルノブイリ原発事故は、原子力災害被災者を権利の主体として捉え直し、国連の社会権規約委員会や自由権規約委員会などの各人権条約機関で議論され始める契機となった。しかし、その範囲と内容は限定的であり、各人権条約機関の政府報告審査や解釈の指針を示す一般的意見において、健康や環境に関わる部分で言及する程度であった。例えば、子どもの権利委員会のベラルーシの政府報告審査(2002年)では、チェルノブイリ原発事故により被ばくした子どもの中での甲状腺がんや免疫不全などの疾病の増加していることに懸念を示すとともに、長期的な健康管理計画の策定などを求めている。チェルノブイリ原発事故によって国際社会で加速したのは、むしろ、事故発生後の関係諸国などへの通報、緊急対応にかかる支援、原子力の安全性、国家間の損害賠償などの分野での条約策定の動きであった。これらはいずれも、国家間の協力義務に基づいたものであり重要であるが、原子力技術の「平和利用」という視点が強く、被災者の権利保障に基づいたものではなかった。
原子力災害被災者の保護が国連などの国際機関で国際人権基準の視点から本格的に議論されるようになったのは福島第一原発事故後である。その代表的なものが「国連グローバー勧告」である。これまで、世界保健機関や国際原子力機関などによって、原子力災害の被害に関する調査報告書は作成されてきたが、国際人権基準に基づいて詳細な調査報告書が作成されたのはグローバー勧告がはじめてである。
「国連グローバー勧告」とは、福島第一原発事故に伴う周辺住民の健康に対する権利に関して、「達成可能な最高水準の心身の健康を享受する権利(健康に対する権利)」に関する国連人権理事会特別報告者アナンド・グローバー氏が、2012年11月15日から11月26日にわたって行った実態調査に基づいて、健康に対する権利を中心とした国際人権基準の視点から作成した国際文書である。同文書は、グローバー氏によって国連人権理事会に2013年5月に提出され、国連人権理事会の文書として採択された。健康に対する権利に関する国連特別報告者は、国連人権理事会より任命される独立の人権専門家であり、その現地調査と勧告は、国連人権メカニズムの特別手続きとして実施される重要かつ権威あるものであり、勧告を受けた国や地域は誠実に履行することが求められる。
グローバー勧告は、健康に対する権利に関する国際人権基準に基づいて、公衆の被ばく線量限度を年間1ミリシーベルト以下とするという明確な基準を示すとともに、日本に対して抜本的な対応の転換と、被災者の権利を実効的に確保する積極的措置を求めている。その内容は、政府・地方自治体・東京電力による初期避難時の緊急対応の問題、不十分な健康管理調査、子どもたちの甲状腺がんリスク、低線量被ばくの過小評価への懸念、原発労働者の健康リスク、情報提供能力の欠如など多岐にわたる。
これに対して、日本は反論報告書を作成して国連人権理事会に提出するとともに、現在まで、グローバー勧告に基づいた対応を実施する姿勢を見せていないのが現状である。原発事故に対する放射線量の基準については、事故直後に、公衆の被ばく線量限度を年間1ミリシーベルト以下を基準とする国内法上の基準と、国際放射線防護委員会による国際基準を大幅に緩和し、なし崩し的に20ミリシーベルト以下を基準として、避難区域の解除を進めている。
さらに、福島県は、政府の方針を受けて、2015年6月、福島第一原発事故に伴う避難指示区域外からの避難者に対して、 災害救助法に基づく応急仮設住宅及び民間借上住宅の無償提供を、2017年3月で終了すると発表するとともに、同年12月、この無償提供終了後の対策として家賃の一部補助や公的住宅の提供支援を発表した。これは、避難者に対して、住む家を失うか、元の居住地に戻るかの選択を迫るものであり、自らの意志に反するような形で帰還を強いることは、健康や居住に対する権利や、国内避難民の保護に関する国際人権基準に反している措置であると言わざるを得ない。
国連女性差別撤廃委員会は、2016年2月16日に女性差別撤廃条約の実施状況に関する日本報告審査を行い、同年3月7日に総括所見を発表した。福島第一原発事故に関しては、「健康」に関するパラグラフの中で、地域住民や避難をしている女性の健康をめぐる問題について懸念を表明し、次のような勧告を出している。
36.委員会は、2011年の福島第一原子力発電所事故に続く放射線に関する健康面での懸念に対処する締約国の取組に留意する。委員会は、しかしながら、放射線被ばく量が年20ミリシーベルト未満の汚染地域を避難区域の指定から解除する締約国の計画に懸念をもって留意する。年間被ばく量の増加により住民の中でも特に女性や女児の健康に影響を及ぼす可能性が高まるからである。
37.委員会は、締約国が女性は男性よりも放射線に対して敏感である点を考慮し、放射線の被ばくを受けた汚染地域を避難区域の指定場所から解除することにより女性や女児に影響を与える危険因子について国際的に受け入れられている知識と矛盾しないことを再確認するよう勧告する。委員会はさらに、締約国が放射線の影響を受けた女性や女児(特に福島県内の妊婦)に対する医療その他のサービス提供を強化することを勧告する。
(女性差別撤廃委員会 第7・8回日本政府報告審査 総括所見 パラグラフ36-37(2016年3月7日)、原文は英語、日本語は政府仮訳)
今回の総括所見で、女性差別撤廃委員会は、日本が公衆の被ばく線量限度が年間20ミリシーベルトを下回る放射線汚染地域を避難区域から指定解除する計画をしていることと、そのことが女性や少女の健康に過度の影響を与える可能性について懸念を表明した。また、女性が男性よりも放射線の影響を受けやすいという点を考慮しながら、国際的に受け入れられた知見に基づいた措置をとるように日本政府に求めている。
政府報告書審査は、人権条約の規定に基づいて行われる国連の審査手続きである。福島第一原発事故に関しては、社会権規約委員会(2013年)、自由権規約委員会(2014年)や今回の女性差別撤廃委員会(2016年)の日本報告審査で勧告が続いている。日本には、勧告された内容を誠実に順守することが求められるが、いずれも法的拘束力がないことなどを理由に無視し続けているのが現状である。自ら条約の当事国になることに合意し、実施する旨を約束した人権条約に基づき、被災者の権利を実効的に確保するための積極的措置を実施することが求められている。