特集 難民問題を考える
ここ数年、ビルマ(ミャンマー)を巡る政治状況は一変した。2011年3月、軍部主導という形ではあったが、軍政から民政へ体制移管した。さらにアウンサンスーチー氏率いる国民民主連盟(NLD)が2015年11月、総選挙で圧勝。翌2016年3月末、NLDが政権に就き、半世紀に及ぶ軍政に完全に終止符を打った。
「ロヒンギャ問題」に注目すると、2012年にラカイン州北部で、ロヒンギャ・ムスリムと仏教徒の間で、数百人を越える犠牲者を出す衝突が起こった。この事件の余波は、ラカイン州に留まらず、最大都市ヤンゴンやマンダレーなど他の都市にも及んだ。もっとも、衝突の被害者の大多数はムスリムであった(最新の宗教別人口比は、仏教徒87.9%、キリスト教徒6.2%、ムスリム4.3%)
国際的に「ロヒンギャ問題」が報道されたのは、バングラデシュやタイに難民が流出した1978年、1991年、2009年であった。そして2015年5月、再び「ロヒンギャ難民」が世界の注目を集める。欧州ではこの時期、シリアを初めとするイスラーム諸国から多くの難民が流入して社会問題化し、それに呼応する形で東南アジアでもムスリム難民であるロヒンギャに注目が集まったのだ。
波間を漂う粗末な船の上で、ロヒンギャたちの泣き叫ぶ姿を捉えた映像はショッキングであった。2015年の報道は、彼ら彼女たちを救わなければという人道的な側面を優先した内容であった。だが「ロヒンギャ問題」はどのようにして起こってきたのか、その背景を的確に伝える報道は少なかった。
ロヒンギャたちがタイやマレーシアに難民として逃れ、現地で過酷な労働条件で働かされていることについて、以前からいくつか報告されていた。それにもかかわらず、どうしてこの時期ロヒンギャが改めて注目されたのか。しかも今回は難民というよりも「人身売買問題」として取り上げられていたのか ― 私には不可解であった。
その理由は後日、判明した。2015年5月といえば、日本でも報道されたように、いよいよTPP(環太平洋パートナーシップ協定)を進めていた各国が最後の合意を目指していた頃である。だが、人身売買の関与国として米国のNGOの報告書に最低ランクに位置づけられていたマレーシアの存在は、TPP交渉の障壁になる恐れがあった。そこで東南アジアでの人身売買の取り締まりが強化されたのであった。
TPPとの関連で、再び国際的な注目を集めたロヒンギャであるが、その際、気になったことがある。それは、日本を含めた海外メディアの多くは、ロヒンギャを「ロヒンギャ民族(人)」と表記していた(英語でEthnic Rohingya)。ビルマ国内のメディアの多くは、英語で発信する際、ロヒンギャをRohingya Muslimと表記していたのにである。
ラカイン州の州都シットウェー郊外の国内避難民キャンプ。井戸の周りは洗濯する人で、一見すると穏やかな様子だが、キャンプ内には軍の兵士が駐屯し、厳しい管理体制が敷かれている(筆者撮影)。
ビルマには、英国による植民地政策の結果、8大主要民族がつくられる。①ビルマ(ミャンマー)族、②シャン族、③カチン族、④カレン族、⑤モン族、⑥チン族、⑦カヤー(カレンニー)族、⑧ラカイン族である。人口比では①のビルマ族が約6割を占め、②~⑧はまとめて「少数民族」と一括りにされてきた。
さらに私が取材を進めていくと、ビルマ国内ではこの8大主要民族に加えて、ムスリムも一つの民族集団として捉えられることに気づいた。しかも国内には、出自により6つの異なったムスリムが存在していた。
(ⅰ)ミャンマー(ビルマ)・ムスリム、(ⅱ)インド/パキスタン系・ムスリム、(ⅲ)パンディー・ムスリム(中国系)、(ⅳ)パシュー・ムスリム(マレー系)、(ⅴ)カマン・ムスリム(中東系)、(ⅵ)ロヒンギャ・ムスリム(ベンガル〈バングラデシュ〉)系である。このような多様なムスリムの存在が、ビルマ国外ではほとんど伝えられてこなかった。
ではなぜ、「ロヒンギャ問題」は起こったのか。それは時の軍事政権が自らの支配体制を強化するため、恐怖政治の下、宗教や民族を異にする人びとの間に不信感を植え付ける政策をとり、社会を階層化(分断)したからである。しかも民族や宗教を同じくする者同士にも、妬みや嫉みが生まれるように仕向けたのだ。
宗教的には、仏教、キリスト教/ヒンズー教、イスラームという階層を、民族的にはビルマ(ミャンマー)族、少数民族、ムスリムという具合である。さらにムスリムの間でも、私の印象では、ビルマ(ミャンマー)・ムスリムを筆頭に、インド・パキスタン系ムスリム、バンディー・ムスリム、カマン・ムスリム、パシュー・ムスリムがほぼ同列で、ロヒンギャ・ムスリムはビルマ社会において最下層に位置づけられた。
英国植民地時代のビルマで、首都ヤンゴン(当時)の人口のほぼ半数はインド人が占め、ビルマ人は3割ほどに過ぎなかった。経済は当時、インド人と中国人に牛耳られており、高利貸し問題や雇用を巡って、ビルマ人とインド人は度々、衝突を繰り返していた。ビルマは1948年、英国から独立するが、経済は相変わらずインド人と中国人に握られ、ビルマ人は経済的に苦しんでいた。その不満の矛先が、まずは肌の色の濃いインド人に向けられた。インド人とムスリムを同一視していたビルマ人たちは、ムスリムを排斥・差別するようになっていった。
軍政下ビルマにおいて、少数民族を含めた一般のビルマ人は過酷な生活を強いられ続ける。人びとの不平不満は軍部ではなく、お互いに繋がりが強く、経済的に恵まれているように見えたムスリムたちに向けることになった。
軍政は1982年、国籍法を制定し、ロヒンギャたちをバングラデシュからの不法移民の末裔だとして、国民から排除した。ロヒンギャたちは軍政前の民主政権から、ラカイン州北部の特別行政区に合法的に居住できる合意を取り付けていた。それにもかかわらず国籍を剥奪されたのである。
ムスリムとして差別され、国籍を剥奪されて無国籍者とされたロヒンギャ・ムスリムたちを救うため、国際社会がとったのは「ロヒンギャ民族」を救えという方法であった。一部のロヒンギャたちは、1950年代からの国際的な「民族自決」の流れを見て取り、ロヒンギャの民族性を強く主張し始めた。それがボタンの掛け違いであった。
ビルマ国内でロヒンギャが民族性を主張することは、ビルマ西部のラカイン州はイスラーム王国が栄えたということに繋がり、ラカイン州の伝統的な仏教遺跡はイスラーム遺跡であると同義語にもなるのだ。それは、極めて強い上座仏教思想と実践生活をもつビルマ人たちの威信を脅かすことにもなった。
2012年の迫害以降、ラカイン州に暮らすロヒンギャやその他のムスリムたち十数万人は、州都シットウェー郊外の難民キャンプに収容され、不自由な生活を余儀なくされている。2015年の11月、その難民キャンプを訪れ、改めてロヒンギャたちに問うてみた。
「あなたたちは『ロヒンギャ民族(人)』なのですか、それとも『ロヒンギャ・ムスリム』なのですか」と。答えは例外なく「ロヒンギャ・ムスリム」であった。その答えは、2009年と2010年、バングラデシュのロヒンギャ難民キャンプで得たのとほぼ同じ結果であった。
ビルマ国内で民主化運動を続ける組織の幹部(ビルマ人)は、「ロヒンギャたちが市民権を得るのは全く問題ない。問題は、彼らが『民族』としてのアイデンティティを主張していることなんだ。でも、今はロヒンギャという名前を出すことさえ憚られる雰囲気が社会に蔓延しているので、〈彼らに市民権を・・・〉という話を公表すること、そのこと自体が難しいのです」と話す。
民政移管した今、国民に圧倒的に支持されるスーチー氏のNLDは、「ロヒンギャ問題」が民族紛争でも宗教紛争でもなく、軍政下で引き起こされてきた人道問題・人権問題であるということを明確にし、政治的な指導力を発揮して、1982年の国籍法の改正を目指すべきであろう。
国際的な援助機関の支援によって作られたトイレの前で遊び回る、ロヒンギャ難民の子どもたち(筆者撮影)。
編集注:宇田有三「ビルマ西部:ロヒンギャ問題の背景と現実」本誌No.90(2010年3月号)参照 https://www.hurights.or.jp/archives/newsletter/sectiion3/2010/03/post-96.html