エジプトに向かう道すがら、という条件のもとでの訪問だったので、残念ながら、ごく短い日数しか滞在できなかったが、国際交流基金のニューデリー事務所所長である小川忠氏のご配慮で、貴重な体験をいくつか与えられた。 今でも深く感謝している。
インドと言えば、実は今まで、できれば敬遠しておきたい対象だった。インドはあまりに大きく、深く、重く、一度その世界に触れてしまうと、簡単なことではそこから抜け出せなくなってしまうというおそれがあった。どうしても気軽に立ち寄るというところではない。ところが、成り行きで気がついたらニューデリーを訪ねることになってしまい、しかも当地の作家や評論家の方たちと一夕、ゆっくりと語り合う機会を設けますからとの連絡を受けて、すっかりうろたえてしまった。現在のインド文学について、いったい私はなにを知っているのだろう。
言うまでもなく、イギリスの旧植民地であるインド出身の作家、評論家の仕事は今までも高く評価されつづけているし、アメリカの出版界もインド系の人たちが牛耳っている。けれども最近の傾向としては、インド在住のままで作品を発表する人が増えてきて、英米に移住して作品活動をする人よりもむしろ、歓迎されるようになっている。それだけ、「インド色」が濃くなるという印象があるからなのだろう。しかしこれはあくまで、英米から見ての話で、たとえば、私のような日本語の小説家としては、インドに住んでいるとは言っても、英語を使っていることに違いなく、今や、世界共通語の地位につこうとしている英語の力でずいぶん、助けられている面もあるんじゃないか、とひがんだようなことを考えたくなるのだ。でも、それ以上のことを知ろうともしていなかった。
インドにはそういえば、かなりたくさんの言語があったはず、けれどもその言語での文学活動がさっぱりわからない。そんな私にとってありがたかったのは、めこん社の現代インド文学選集の存在だった。各言語毎に一冊ずつ刊行しつづけていて、ウルドゥ語、ヒンディ語、タミール語、カンナダ語、ベンガリー語、英語が今まで刊行されている。最初のウルドゥ語からすでに十四年も経っていて、なおも続刊中という大変な選集なのだ。作品は言うまでもなく、解説も読んで、各言語の状況をようやくぼんやり知ることができた。このなかで、モハッシェタ・デビさんという女性作家の『ジャグモーハンの死』の力強さは特に忘れがたく、言語の壁の向こうにはきっと、まだまだすばらしい作品があるんだろうな、と思わずにいられなかった。
というわけで、前置きがすっかり長くなってしまったが、最低限の予習をして、ニューデリーにようやく到着した。小川さんが設定してくださった懇談会の日は、インド総選挙の日にぶつかり、しかも夕方から雨も降りはじめ、欠席が多いのではないかと心配していたが、結局、二十名ほどの出席者を得て、無事に終了した。女性作家協会代表の方が司会をしてくださり、そのお話を聞き、また参加者の女性作家の顔触れを見ていると、日本の女性作家の多くは自分にとって社会的な問題はなにもなし、という構えで仕事をしている場合が多いのに比べ、インドの女性作家たちは社会的な意識がとても高く、かつ、非常に力強いという印象を持った。もちろん、著しい貧富の差、パキスタンとの対立、国内の人口問題、階級問題、宗教差別など、いやでもインドにいれば、現実の困難を目にしないわけにはいかなくなるという事情はあるにしても、日本はそれならパラダイスかといえば、もちろんそんなことはあり得ない。見えにくい形で、だから一層深刻に存在する問題はいくらでもあるにちがいない。
あなたの短編小説(英語訳したものを事前に用意しておいた)を読んで、とても理解できるのでびっくりした、私たちはかなり違う状況にいるのかもしれないけれど、自分たちで思い込んでいるよりもずっと実は、文学を通じて互いに理解できるのではないか、という感想がその日の懇談会ではいちばん多く、私も深く同意せずにはいられなかった。インドでは日本の現代文学はまだ、ほとんど親しみがないし、日本ではこれは言うまでもないような状態。なぜ、お互い、こんなに知らないままでいるのだろう、と不思議な思いにさえ誘われた。世界は小さくなったと盛んに言われ、確かに日本からインドに旅行する人は想像以上に多いのだろうし、情報も氾濫している。でも、実際は知らないままでいることがあまりに多く残されている。そしてそこにこそ、私たちの知らなければならない事柄が待ち受けているのだろう。
ニューデリーでは珍しく雨が降りつづけ、街中があっと言う間に氾濫状態になった。その水浸しの街に出て、デリー駅のまえにひろがるモティア・カーン地区の「スラム」を訪れた。スラムのなかも水浸しで、それでもそこに住む人たちは日本人の私たちを見ると、にこにこ笑って、こんにちは、と声をかけてくれる。この巨大なスラムの真ん中には、ジャグリティ・スクールという「働く子どもたち」のためのNGOプロジェクトによる学校があり、そこを小川さんの提案で訪ねたのだった。ニューデリーでは、五十万人もの働く子どもたちがいるという。そうした子どもたちに教育の機会を与えたいという熱意ではじめられたこの学校は、今では手作りの校舎も形がついてきて、高校の課程も用意され、こうした成果が評価されて、もうすぐ正規に認可されるでしょう、とのことだった。
その日は「水害」のためにいちばん下の学年の子どもたちしか集まっていなかったので、その授業と給食の様子をのぞかせてもらった。給食も、欠食しがちなこの子どもたちにとっては大切な役目の一つなのだという。ついでに言えば、警察に捕まってしまった子ども、マフィアの網にかかった子どもの保護や、性的暴力、親からの暴力などからの保護も必要不可欠な仕事らしい。 小さな子どもたちは元気いっぱいで、無邪気な好奇心を私たちに向け、目が合えばかわいらしく笑い返してくれた。
ところが、その後日本に戻ってから、このスラムは政府命令で一斉取り壊しとなり、学校の方はやむなく、今までの資材を持って、カルカッタに移っていったと知らされた。スラムに住んでいた人たちはなにがしかのお金を出せば、郊外の住宅を提供されるというのだが、そんなお金はだれも持っていないし、郊外に移ってしまえば、現在の廃品回収などの仕事ができなくなる。 それで結局どうなるか。
またニューデリーのどこかにスラムを作って、住みつくことになる。あの子どもたちはどうしているのだろう、とその笑顔を忘れられずにいたので、よけいに切なくなった。せっかくの学校も失い、保護も失い、黙々とニューデリーの路上で働きつづけるのだろうか。
これが私の直接に知り得たインドの「現実」のひとつだった。知ったところで、なにも手助けができない。それがつらい。けれども、この東京にもかつて同じような現実があったことを思い出させられた。私が高校生のころ、東京オリンピックを前に、外国人に見られたら恥ずかしいという理由で、一斉にスラムが取り壊され、その住人が追い立てられたのだった。あの人たちは一体、その後どうしたのだろう、と今頃になって気になりはじめた。日本の東京に住む小説家としては、ニューデリーで触れた人たち、子どもたちから教えられた事を受けて、自分の足元に隠されている事実をこつこつ拾いあげていく必要があるらしい。そんな思いを今、抱くようになっている。