人権の潮流
2000年2月29日、大阪高等裁判所第9民事部は、「新潮45」に少年の実名報道がなされたことに対して、損害賠償を認めた一審判決をくつがえし、記事の掲載は少年の権利を侵害したことにはならないと判断した。 この判決には重大な問題がある。
少年法61条は、「家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容貌等によりその者が当該事件の本人であることを推知することができるような記事又は写真を新聞その他の出版物に掲載してはならない」と規定している。「ルポルタージュ『幼稚園児』虐殺犯人の起臥」として「新潮45」に少年の実名・顔写真入りで少年の日常生活や非行歴等を詳しく書いた本件記事が、この少年法61条に違反していることは明らかである。
ではどうして高裁判決は権利侵害ではないと判断したのか。高裁は次のような判断した。まず、少年法61条は、このように規定しているものの、それを守るかどうかは社会の自主性に任されている(裁判所は関知しない)という解釈を示した。そしてさらに(少年法61条をこのように解釈するにしても)、一般的に自らのプライバシーを他人に公開されない権利はあるが、「表現行為が社会の正当な関心事であり、かつその表現内容・方法が不当なものでない場合」は、権利侵害にならないとした上で、本件はこれにあてはまるので違法ではないとしたのである。
少年法61条に違反したからといって、刑事罰が科されるということはない。しかし、刑事罰が科されないから、法に規定はあっても社会の自主的判断に委ねられているなどと考えるのには飛躍がある。法律が「できるだけ~しなければならない」と控えめな表現方法をとっているならともかく、少年法61条は「掲載してはならない」とはっきり禁止をうちだしている。少年法61条に違反しても裁判所は関知しないという高裁の態度は疑問だ。高裁判決は、少年法61条は社会の自主規制にまかせた条文であると言いながら、新聞その他出版関係者に対して「本条の趣旨を尊重し、良心と良識をもって自己抑制することが必要である」とし、受け手の側にも61条の趣旨に反する出版行為に対しては、「厳しい批判が求められている」としている。要するに今回の「新潮45」のような報道は、本来新潮社や書き手の側で「良心と良識をもって」これを行わないようにし、もし、万一これが行われてしまったら、雑誌を購入する側となる一般の市民が、このような記事が載せられたことに対して厳しく批判することが求められているというのである。ここまで言いながら、しかし裁判所はこれに関わりを持たないという姿勢をとることは、いかにもバランスが悪く、裁判所の責任逃れの感すらある。
判決は、本件の記事が少年のプライバシーや肖像権などを侵害するかどうかについては、「少年法61条の存在を尊重しつつも」、表現行為が社会的関心事であり、かつその表現内容、方法が不当なものではない場合は、違法にはならないとする。
しかし、この判断も到底受け入れられない。判決は、今回の事件が、被害者や近隣住民そして社会一般に大きな不安と衝撃を与えた事件であるから、どんな人物がどのような事情で事件をおこしたのか社会に強い関心があり、本件記事は社会的正当な関心事であるといっている。本件事件が社会の強い関心を呼び起こしたことは疑いのない事実であろう。しかし「実名が知りたい」「顔が見たい」といったことが関心事として「正当だ」と認めてしまっていいのだろうか。
少年犯罪報道をめぐって、こと凶悪犯については、実名を知りたい、実名報道すべきであるという意見がある。意見の根拠としては、1)仮名では記事としての臨場感、迫真性を欠く、2)名前がわからないと将来その者が出所したときに市民が犯罪から自らを守ることができない、3)被害者は実名をさらされるのに加害者の側が少年法によって守られるのはおかしい、4)犯罪を犯した以上一定の制裁がなされるのは当然である、などと言われる。
しかし、これらはいずれも正当な意見とは言えない。まず、仮名では記事としての臨場感を欠くというのは本当かどうかも疑わしい。また、加害者の名前がわからないと市民が安全を守れないとも言えない。報道された加害者の名前をずっと覚えている人などいないだろう。次に、被害者は実名をさらされるのに加害者の側が少年法によって守られるのはおかしいなどという意見もあるが、そもそも、「被害者だってひどい目にあっているから加害者だってひどい目にあって当然だ」というのは冷静な議論とは言えない。むしろ、被害者が実名報道や写真掲載などにより二次被害を受けていることこそが問題であり、それを解消すべきなのである。最後に、犯罪を犯した以上一定の制裁がなされるのは当然であるという議論もある。ここでいう制裁を行う主体は、新聞やテレビなどの報道機関等を指していると思われる。しかし、裁判所ではなく「自分」が裁くというのは、報道関係者の思い上がり以外の何者でもない。
高裁判決は、このような点について何もふれずに、単に社会の人が強い関心をもっていることをもって、社会の「正当な」関心事であると判断してしまっている。社会が少年の実名を知りたい、顔を見てみたいという理由は何なのかを具体的に検討し、それが正当といえるかどうかについて何の検討もしないで、このように言い切るのはあまりにも粗雑な論理である。
また、高裁判決は、少年側が「実名等で少年が特定されるような報道をすることは、少年の将来の更正を阻害するものであって許されない」と主張したのに対して、実名報道しても少年の更生の妨げにはならないという。判決が、その前半部分で、少年法61条は、「将来性のある少年の名誉・プライバシーを保護し、将来の改善更正を阻害しないようにとの配慮に基づくものである」と述べているが、本判決は正面から少年法61条の趣旨・精神を無視し破っている。私も、ある重大事件を犯した少年が、マスコミによって広く事件が知れ渡ってしまっていることでノイローゼ気味になり、社会復帰後も極めて混乱した精神状況にあるというケースを聞いたことがある。むろん、重大事件で被害を受けた人の人権は守られなければならない。また事件を犯した者は相応の措置を受けるべきであろう。しかし、だからといってマスコミによって制裁を受け、社会から抹殺されてもやむを得ないと言わんばかりの主張にはとても賛成できない。
今回の高裁判決は、その論理構成が粗雑で、またその内容も到底批判に耐えうるものではない。特殊な者だけが少年犯罪を犯すわけではない。凶悪事件と言えども、単純に少年だけを責めれば済むような事件はない。凶悪事件を犯した少年も、そしてまた何の落ち度もなく被害にあってしまった被害者やその関係者もまた社会の一員である。大きな困難や苦しみはあるとは思うが、それぞれが共存できる状況を目指さなければならない。正義はそんな単純なものではない。