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国際人権ひろば No.31(2000年05月発行号)

肌で感じたアジア・太平洋

旅のスタイル

~アジアとお金と日本人~

角岡 伸彦(かどおか のぶひこ)
ノンフィクションライター

 ぼくが紅顔の美少年だったころ、といえば今から十五年以上も前になる。十代後半から二十代前半にかけて、小金が貯まるとふらりと貧乏旅行に出掛けていた。行き先は、少ない予算で旅が続けられる国に限られた。初めてとったぼくのパスポートは、次第にアジアの国々のスタンプで埋められていった。外国人に開放されて四年しか経っていない中国、マルコス政権下のフィリピン、オリンピック前の韓国・・・・。八〇年代のアジアは、ぼくの好奇心、行動力を満足させるには十分だった。

 若いからこそできる旅がある。中国の汽車で旅行したときは、硬座といわれる文字通り硬い椅子に座り、三日間を過ごした。 夜は椅子の下にもぐりこんで寝たが、目的地に着いたときには、げっそり痩せていた。独裁政権下のフィリピンでは、スラムやゲリラの本拠地を訪れては、自分の好奇心を満足させていた。初めて行った韓国では同じ年頃の大学生と知り合い、言葉もできないのに毎晩飲み明かした。

 いかに安くあげるかが当時の関心事だった。ギュウギュウ詰めの列車やバスに揺られ、野宿をし、大衆食堂で民衆と同じものを食らう。その旅の過程で多くの友人、知り合いができた。独身だった韓国人の友人には現在、子供がふたりもいて、この前泊まりに行ったとき、下の娘は自分がなめていた飴をぼくにくれたりする。世代を越えた日韓友好である。

 紅顔の美少年は、いまはただの厚顔の三十六歳になった。体力も気力も衰え、昔のような貧乏旅行を続けることは不可能に近い。何よりも旅のスタイルが変わってしまった。社会人と呼ばれるようになってから時間を金で買うようになった。できることならプール付きのホテルに泊まりたい。それなりの金を払うのだから、レストランでの食事はうまくなければならない。贅沢な時間を過ごす旅に慣れると、学生のころは軽蔑していた成り金オヤジみたいになっている自分に気づくことがある。

 旅のスタイルは変わったけれど、むかしとった杵柄か、海外旅行をすればどういうわけか下町、スラムに足が向いてしまう。 昨年十二月、初めてスリランカを訪れた。宿泊したリゾートホテルのすぐそばに漁師町があった。あてもなく歩いていると子ども達が話しかけてくる。

 「ボールペン?ボンボン?」

 ボールペンか飴をもってないか、もってたらちょうだい、というわけである。砂浜には高さ一メートル、二畳くらいの小屋が並んでいる。倉庫ではなく、そこが住居である。ある漁師と知り合いになり、夕食に招待された。招待といっても費用は自分で出したので主催者はぼくになる。電気がないためロウソクの火で食べる家庭料理は、うーん、はっきりいってまずかった。

 「コカコーラ飲まない?ビールはどうだ?この後、遊びに行かないか?」

 彼の目的はわかっている。ぼくをカモにして楽しもう、という魂胆だ。彼らにとって、ぼくは金持ちの国、ニッポンから来た旅行者でしかない。彼がぼくに期待するものは金であり、ふだん体験できない贅沢である。一泊三千円のリゾートホテルは日本では格安だが、スリランカでは半月から一カ月近くの収入になる。ぼくが「金持ち」に見えても不思議はない。

 金が旅のスタイルを変える。貧乏旅行をしていたときは、よく地元の人の家に泊めてもらったり、ごはんをごちそうになった。 日常生活をともに過ごしたからこそ、いまだに付き合いが続いている。金に困らない旅行は、貧乏旅行に比べて友達ができにくい。おまけに金を狙った犯罪にも遭いやすい。今回もそうだった。スリランカの大都市、コロンボでモルジブ人に化けた現地人にまんまと三千円ほどだましとられた。だまされたときは無性に腹が立ったが、日本に帰って来たら憑き物が落ちたみたいに怒りはおさまった。「まあ三千円で済んだからええか」てなもんである。十代のころ、そんな目に遭ってたら、しばらくはショックで立ち直れなかっただろう。

 貧乏旅行をしなくなって、ぼくは何かを失った。金があるのは、とりあえずいいことなんだろうけど、金を媒介にした関係というのは、なんとなくさみしいような気もする。これって日本とアジアの関係に共通して言えることかもしれない。金があってもなくても、刺激いっぱいのアジアにこれからも通い続けたいと思う。