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国際人権ひろば No.32(2000年07月発行号)

肌で感じたアジア・太平洋

韓国・元「良心の囚人」を訪ねて

恒成 和子(つねなり かずこ)
アムネスティ・インターナショナル日本支部会員

 二〇〇〇年五月十四日から二十八日まで二週間、韓国に行った。 最初は南の光陽(カンヤン)、麗水(ヨス)、順天(スンチョン)、光州(カンジュ)。 そのあとソウル。

 一度遊びに来るように前から再々言われていて、それじゃ春になったら行こうかとそのつもりでいたら、直前になってFAXがはいった。「麗水MBC(文化放送局)がこんどの訪問をめぐって五五分のドキュメンタリー番組をつくりたいと言っている、よろしいか?」いっしょに送られてきた企画書を見ると、「韓国の人権状況に深い関心と愛情を寄せてきた恒成和子女史(七〇才)が、李学永(イ・ハギョン)、順天YMCA総務、四十六才)の招請により、来たる五月、韓国を訪問する予定です。・・・恒成氏の韓国訪問は今回が初めてであり、三〇年にわたる氏の献身的な人権運動に比すれば、遅すぎた感があります。とはいえ、日韓国交正常化から三十五年、この訪問は日韓両国の市民運動の交流にとって新しい転機といえます。今回の訪問では恒成氏の援助を受けた多くの韓国人との出会いを通じ、この間の韓国における人権状況の変化が浮き彫りにされる筈です。と同時に、今後の日韓両国の民間次元における善隣友好と市民運動の将来を展望していきたいと思います。」

 七〇年代、八〇年代、関西のアムネスティは韓国のアムネスティの要請に応じて支援金等を送り続けた。時代は変った、と思った。これまでなら、こんなことをテレビはとりあげようとしなかったろう。

 光陽に住む李学永さんは私を泊めるために、体にいいという黄土房(住居)をつくって下さっていた。子ども、奥さん、一家総出で土をこね、紙を貼る光景が、私が着く前にニュースで放映されていた。七四年の民青学連以来文通を続けてきた学永さんに私は聞いてみたいことがあった。「どうしてあんな手紙を、日本人である私に送ってきたのですか?」

 彼の手紙にはいつも、普通、人に見せない心の奥底の真実が書かれていた。

 「ほんとの気持をうちあけられる友人も家族も誰もいなかった。何もかも真っ暗だった。あなたの存在だけが、闇の中に遠くかすかに光っている明かりのように見えた。」

 崔冽(ヨンチョル)さんは会員七万人、ソウルの事務局のスタッフ七〇人、全国に四〇の事務所がある「環境運動連合」の事務総長。獄中で公害の本を二五〇冊読まれたそうで、当時韓国には公害の本がなかったので、私の方から送っていた。順天でお会いした。「明日から中国へ行きますが、ソウル滞在のおもてなしは全部私の方で準備します」とのことであった。

 「五・一八光州民衆抗争二〇周年記念」前夜祭のデモ行列の見物に行ったら、先頭にひっぱりこまれる羽目になった。翌日の夕方、智異山華巖寺(チリサンファオムサ)の食堂でテレビを見ていたらその場面が出てきて、アナウンサーが「光州市民は恒成和子さんを拍手で歓迎しました」と放送していた。

 番組に要るそうで、帰国後李学永さんに手紙を書いた。

 「帰国した二十八日の夜NHKで『精神的外傷・トラウマ』という番組を見ました。その番組に登場した女性は幼い時母親からひどい虐待を受け、そのために多重人格になりました。

 『私はお母さんを許せません。(彼女は母親に会おうとしない)』・・・『しかしそれは起こってしまった事実なのです。』・・・『私は事実を乗り越えるしかありません。』・・・『つらいことですが』・・・『いま考えてみると、お母さんにも何かつらいトラウマがあったのかもしれない。』

 長い間をおいてゆっくりゆっくり語る彼女の話を聞きながら、私は韓国と日本のことを思い浮かべていました。

 私は、私たちがしたささやかな行為が、日本がかつて韓国に為した『過去の事実』への、なんらかの『謝罪』や『償い』になり得るとは、些かも考えておりませんから、今回の旅行中もそのことには何も触れませんでした。私たちがした行為の動機は次のようなものです。

 『人権は国境や人種、信条の違いを超えて存在する。これらの権利を擁護するための国際的責任も同様に存在する。こうした原則を普遍的価値として尊重させようとするなら、世界中の普通の人々の一致協力した行動による国際世論の圧力を生み出してゆかねばならない。これこそが、アムネスティ運動を創設するきっかけとなった考え方である。』

 結果としてこのことが、韓国と日本との『起こってしまった事実』を乗りこえるために、少しでもお役に立つことができるとしたら、それは望外の光栄であり、よろこびです。そしてこのことが実現したのは、学永さん、崔冽さん、テレビ局の李(リ)さん梁(ヤン)さんら韓国の方々からの賜物であることは申し上げるまでもありません。ありがとう。」

(* 一九九七年一月発行の「ヒューライツ大阪」十一号では、恒成さんによる李学永さんへのインタビュー記事が掲載されています)