肌で感じたアジア・太平洋
~カンボジア・人権活動家との出会い~
ヒューライツ大阪の所長をされていた金東勲・龍谷大学教授の下で国際人権法の指導を受け、二〇〇〇年の春、何とか大学院修士課程を修了することができた。社会人として仕事を抱えながらの研究生活は大変だったが、充実した三年間だった。修士論文では、国際人権の分野で課題とされる各国・各地域における人権の実現について、とりわけその際に問題となる人権と文化的価値との調和をめぐり、カンボジアにおける人権教育の実践を事例に考察した。その調査もかねて、これまで三度カンボジアを訪問した。
周知の通り、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の主導による選挙によって成立した制憲議会における審議を経て、一九九三年九月「カンボジア王国憲法」が公布された。そこでは、新国家体制の基本原理として「複数政党制に立脚した自由な民主主義」が掲げられ、国際文書に準拠する人権規定が設けられた。さらに国民主権、三権分立、違憲審査制度が採用されるなど、人権を保障する基本的なシステムはすべて整っている。
他方、議会を通過した法律には人権の視点から見ると欠陥があるものも多い。さらに、人権保障のために必要とされる基礎的な法律がいまだ整備されていないものも少なくない。その上、軍と政党が結託した権力ヒエラルキーの存在、人権擁護に深くかかわる軍人・公務員の薄給によるモラルの低下、法の無知などにより、法・規律が守られず日常的に人権侵害が起こっている。
こうした無法ともいえる状態がまかり通っている背景には、やはり二十年に及ぶ内戦、とりわけポル・ポト時代に蔓延した「暴力の環境」の存在が大きい。力による問題解決を特徴とする「戦争の文化」は、子ども達を殺人者へと仕立て上げた。その影響は今もって到る所に見られる。例えば、私がアンコール・ワットで親しくなった四人の少年は、全員がポル・ポト時代に両親を亡くしたか、生き別れをした。観光客のガイドで生計を立てる彼らの仲間の中で縄張り、親分・子分関係が見られた。さらに、その日の稼ぎの約半分を警察官に支払わないとガイドの仕事ができない慣例になっていた。
ポル・ポト時代という特異な歴史を経験した国において、「戦争の文化」という負の遺産を克服していかに「平和の文化」を構築していくのか。その基盤となる新しい人権文化を創造していく上でどのような試行錯誤がなされているのか。そんな問題意識を抱いて代表的な人権NGOであるカンボジア人権研究所を訪問した。そこで私が出会ったのが副所長のメンホ・リン女史である。彼女はヒューライツ大阪が主催する人権教育プロジェクトに参加していたこともあって、私を歓待し様々な配慮をして下さった。女史が中心となって研究所が実施してきた学校における人権教育を例に挙げ、私の質問に快く応じてくれた。
カンボジアの明日の社会の発展は、未来の大人である子ども達に人権や非暴力といった価値を理解し実行してもらうしかないとの結論から、小・中学校において教員を通して子ども達に人権を教育することになった。「人権教育の方法」と称されるこのプロジェクトは、カンボジア政府との協力で進められ、人権を再構築する「寛容、連帯、愛そして協力」といった伝統的価値を取り戻すことに力点が置かれている。
「当初、世界人権宣言や国際人権文書をクメール語に訳してやさしく人権について教えてきたが、生徒だけでなく教員さえも理解が困難であった」と失敗談を語る女史。そこで創意工夫されたのが、伝統文化である仏教の活用であった。「仏教には国際的に人権と認識されている内容と結びつく要素が多く見られる」と女史は強調され、人権の角度から仏教を見直す作業を研究所は進めた。その上で、「カンボジア人が日常的に親しんでいる考え方、つまり仏教徒にとって道徳的規則となっている『五戒』を利用して簡潔に人権を教えた。例えば『殺すなかれ』は、生命の権利・拷問禁止などをカバーしている。『盗むなかれ』は、財産権を保障している。『嘘をつくなかれ』を守るならば、不正選挙などの違法行為には反対する」と語った。その結果、子ども、教員に高い教育効果が現れたという。最後に、人権を権利の主張だけに限定して理解しがちなカンボジアの現状に対して、「義務・責任感を持つことが大切であり、これを教えるのが人権教育の役割である。自分だけでなく他人をも大切にすることを説く仏教は、その点でも活用できる」ことを力説された。
「平和の文化」構築に果たす仏教の役割、人権と文化的価値との調和に関心を持っていた私にとって、メンホ・リン女史の話には我が意を得た思いだった。生活の中で息づいている仏教の活用とシンプルな方法を用いたカンボジアの人権教育は、日本では想像しがたく、地域の特殊性を反映した「人権文化の創造」ではないかと感じられた。