現代国際人権考
―人権制限事由としての「公共の福祉」を考える手掛かりとして―
人権擁護推進審議会の「人権救済制度に関する中間取りまとめ」が公表された。現在は、文書、ファクス、電子メールなどによる多くのコメントや四度にわたる公聴会の結果を踏まえて、審議が継続中である。わたし自身この審議会のメンバーであるので、ここでは「中間取りまとめ」自体に対する評価は差し控えたい。そこで、副題に示すとおり、中間取りまとめに対する一部の反応を手掛かりとして、人権制限事由としての「公共の福祉」について考えてみることにしよう。
中間取りまとめに対する反応のなかで注目されるものの一つに、報道被害者の救済がある。これについて中間取りまとめは「積極的救済の対象とすべきマスメディアによる一定の人権侵害との関係では、表現の自由、報道の自由の重要性にかんがみ、強制調査について慎重な配慮が必要であり、この種事案に対する調査の在り方についても、引き続き検討することとする」としている。周知のとおり、この点については、新聞社などの報道関係団体から警戒・批判の声が挙がっている。だが、こうした警戒・批判が"日本国憲法に規定する表現の自由"を根拠としているのであれば問題である。
日本国憲法は、表現の自由を含む基本的人権が一律に「公共の福祉」によって制限されうる、と規定する方式をとっている。これとは対照的に、世界人権宣言を条約化した「市民的及び政治的権利に関する国際規約」―いわゆる自由権規約―は、一つひとつの人権ごとにそれぞれの特性に応じて、それを制限する事由を個別的に列挙する方式をとっている。その結果、たとえば「拷問・奴隷の禁止」や「良心の自由」などのように制限事由が掲げられていない人権については、いかなる場合にも制限されえないことが明らかである。
ところで、自由権規約の第一九条によれば、表現の自由は「他者の権利や信用を尊重するためや、国の安全・公の秩序・公衆の健康・道徳を保護するために、法律で定める場合には」制限できる、と規定されている。したがって同規約のもとでは、マスメディアの報道がこのいずれかの事由に当てはまる場合にのみ、表現の自由が制限されることになる。それに対して、日本国憲法のもとでは、「公共の福祉」に反する表現の自由は一律に制限されることになる。ただし、「公共の福祉」はきわめて抽象的な概念であって、なにがこれに当たるのかは必ずしも明確でない。つまり日本国憲法のもとでは、裁判所の解釈いかんにより、表現の自由が自由権規約のもとにおけるよりも、さらに大きな制約を受ける危険が存在するのである。「中間取りまとめ」に対する警戒・批判は果たしてこの危険に気付いているのだろうか。