コラム人権教育
昨年夏、豊中で、韓国の元「良心の囚人」、李学永(イ・ハギョン)さんを囲む小さな集まりをもった。
「仰向けに寝かせて、たっぷり水を含んだ雑巾を鼻と口に押しつける。言おうか、言おうかと、思い続ける。死ぬ、言おうと思ったまさにその瞬間に、雑巾をとる。(筆者注。さすがプロ。素人だとこうはいかない)。又やられる。そのくり返し。今日だけは言わないでおこう、明日言おう。幾日もそのくり返しでした。」
「あなたのその頑張りを支えたものはなんですか?」
「そりゃ、自分が正しいと思っているからですよ。かんたんなことです。それが良心の自由というものでしょう。」
アムネスティは、「良心の囚人」の考えていることが正しいか正しくないか、善か悪かを判定する立場ではない。囚人が何を考えたかでなく、政府が囚人に対してやったことが、人権のルールに反しているかどうかを判定する。当然正しくない考えの「良心の囚人」も擁護し、時に「不正義の味方」になったりもする。
「一度しかない人生を自分で決めるという自己決定、それに基づいて自己実現や自己表現できる、そのチャンスをもつことが人権」(『ヒューライツ大阪』二十九号、江橋崇)なら、どんな自己決定や自己実現をするかは各人の自由で、「抑々人ノ此世ニ出産スルハ何ヲ目的デ出デ来リシカヲ尋問スルトキハ、己レガ欲望ヲ満足シ愉快ヲ尽シ幸福ヲ極メンガ為メニ相違ナシ」(中島勝義『俗夢警談』)というような「思想」に、人権が文句をいう筋合いは何もない。むしろそのような「思想」が弾圧される時は、擁護しなければならない立場である。それぞれの個人がどう生きるか、如何に生きるべきかの答えは、人権にはない。生き方の中身は、各人に下駄をあずける。
さて、津波のごときグローバル化、経済大不況の世の中、精神的に路頭に迷い、どう生きるかの答えを渇望する人々が巷に溢れていると想像される昨今である。そうしたニーズに答えて、『国民の道徳』(西部邁)、『国民の歴史』(西尾幹二)、『いま魂の教育』(石原慎太郎)などがベストセラーになった。
人権に何が言えるだろうか? 言うなら、目には目を、道徳には道徳を、思想には思想を! 思想の中身で勝負すべきである。
人権教育の現状は、その辺のけじめが全くあいまいだと私には思える。人権の名において、容赦なく人の内面に干渉し、道徳を要求し、人権さえあればなんでも間に合う人権万能論のごとき人権教育もある。
人権に何ができ、何ができないか、どこに限界があり、矛盾があり、問題があるのかをキチンと整理し、議論し、共有する必要があると思える。
その上で、問題はさらに先にある、と私は思う。
李学永さんの例に見られるように、自分が絶対に正しいと思い、死んでも守ろうとする価値に支えられていなければ、人は人権を守れない。そのような価値観、思想、覚悟は、人権から得られるだろうか? お好きなように、ちがうことはいいことだ、と言っていればすむだろうか?
「言論思想の自由、多様価値、多文化共生、それはいい。だが、そうだとして、それじゃ自分の思想はなんなんだ」ということが、アムネスティをやって三十年の、私の休み休みの馬鹿な思案であった。答えは未だない。「みんなちがって、みんないい」(金子みすず)としても、しかし一人ひとりの人間は、これが正しいと信じる価値観がなければ、生きてもいけず、主体形成もできず、人権を守ることもできないのである。人権教育はこの矛盾にどう対処できるだろうか?
かつて三島由紀夫が、「内面的なモラルというものは、自分で決めて、自分がしばるものだ。そうでなければ、精神なんてグニャグニャになっちゃう」と言ったことがある。理性による自己決定。自律。私はこの説に懐疑的である。自分でしばったものは、自分でほどくことができる。
むかし李学永さんは、獄中からの手紙の中で、今の私をつくったのは、過労のために野辺に倒れて死んだ父親と、残された五人の子どもを山奥の貧農のくらしの中で育てた母親だ、と書いてよこされたことがある。ほどきたくてもほどけない体験や思いが、李学永さんをしばっていた。だから絶体絶命でがんばることができたのである。
アムネスティは、2000年10月から、2001年12月まで、世界中で「拷問廃止キャンペーン」を展開しています。資料が必要な人は、大阪事務所(電話06-6910-6170)、または東京事務所(電話03-3202-1050)にご連絡ください。