人権の潮流
-CERDで問われ始めた日本の人権政策とNGOの役割-
2001年3月8・9日、ジュネーブのパレ・ウィルソンにおいて、人種差別撤廃条約(ICERD)に基づいて日本政府が提出した報告書の史上初めての審査が行われた。NGOのメンバーとして参加した中で、何が最も印象深かったかと言えば、審議の冒頭で何人かの委員が言及した言葉であった。それは、日本という国際的に大きな影響力をもつ国が、この条約の審査に加わった意義は大きいというものだった。別の言い方をすれば、1965年の条約採択以来、30年以上もその批准を渋ってきた日本政府の差別撤廃のための政策が国際基準の下でその実態を問われる日が来たといえるかもしれない。私自身、条約機関の審査としては、日本の人権NGOが古くから取り組んできた規約人権委員会のそれと比較しても、この点でICERDの審査の出発に参加できたことは格別の思いであった。
結論から述べれば、3月20日に人種差別撤廃委員会(CERD)で採択され、日本政府に送付された「最終所見」は、人権運動にとって極めて有用なものであった。(「最終所見」の日本語訳は、反差別国際運動、日本弁護士連合会、在日韓国人問題研究所(RAIK)国際人権部会および外務省が訳したものがあり、反差別国際運動および外務省のウェブサイトからのダウンロードが可能である。)
CERDで議論となった在日コリアン、アイヌ民族、沖縄・琉球民族、外国人労働者、難民、「部落民」(被差別部落出身者)など個々の論点での評価は、それぞれの関係団体に任せるとして、その全体的な意義を私の可能な範囲内で紹介しておきたい。
まず、「最終所見」は、全27段落に及んだが、日本政府報告の「肯定的な側面」として3段落が当てられたのに対し、「懸念事項および勧告」として21段落が割かれたことは注目に値する。1993年規約人権委員会の第3回審査時の「意見」が12段落、また、最もロビー活動に成功した1998年の同委員会第4回審査時の「最終所見」が30段落であったことと比較すれば、より対象の狭い条約の第1回審査でこれだけの詳細な勧告が出されたことは、審査が有効に行われたことを端的に示している。参加したNGO側として検討すると、外国人労働者と中国帰国者への言及が弱いが、その他はNGOが持ち込んだほとんどの論点が「最終所見」で取り上げられた。例えば、民族的優越および憎悪に基づく思想の流布の禁止と表現の自由は両立すると指摘した上で、差別を禁止する特別法の制定および行政および司法における救済措置の確立が勧告された(第10~12段落)。これと関連して、明示こそされなかったが、石原都知事発言に言及してこれには行政上および法律上の措置が取られるべきだとの見解が示された(第13段落)。また、ジェンダーとこの条約の対象範囲である差別問題の交差する領域、いわゆる「複合差別」に対しても政府の措置が取られるよう勧告されたことも、特筆に値するだろう(第22段落)。
さらに、日本政府が、条約の対象外として政府報告書で言及しなかった問題にも厳しい勧告が行われた。具体的には、部落民、(日本国籍を取った)在日コリアン、沖縄人の状況に関して、次回の報告書での詳細な言及が義務付けられた(第7段落)。また、特に、「世系」に関して明確な判断が下され、この条約が部落民に対する差別をも対象にすることを明記した意味も小さくない(第8段落)。
こうした「最終所見」の採択には、NGOのさまざまな共同作業の成功がその背景として存在している。これは、「最終所見」の第2段落で委員会自身がNGOの貢献に言及したことでも明らかである。具体的には、日本政府報告書の審査が始まる前の3月7・8日の昼休みに委員を招待して行ったブリーフィングは、かなりの好印象を彼(女)らに与えることができた。また、それぞれのNGOは委員に事前送付を目的に独自の「NGOレポート」の作成に努力したが、こうした報告書作成過程での協力も記録に値する。1999年12月には反差別国際運動を中核に、CERD審査に関する情報交換会が発足し、2001年1月には今回高い評価を受けた「共同サマリーレポート」の作成に成功したからである。
今回日本政府がCERD審査で行なった「大ウソ」のひとつは、国内でのNGOとの共同作業が順調に行なわれたという件であった。条約機関の一般的傾向として、国内プロセスの充実は、すべての委員会で大きく期待されている。つまり、私たちも忘れてならないことは、ジュネーブに国内問題を持ち込むこと自体が本来の仕事では決してないということである。そして、今回の政府報告書作成に関しては、私の記憶するところ、NGOと政府の事前協議はわずか2回しか行われなかった。第1回協議は、ICERDが日本国内で発効した1996年12月20日に外務省で行われた。しかし、ここでの協議方式は、参加したNGOが1団体3分で意見を述べるというものであり、外務省の他、法務省、労働省(当時)などの担当官は、NGOの発言に回答する義務はないという条件がつけられた。私を含めて、NGO参加者の誰もがこれを「協議」だと認めるはずがない、「意見を聞いてあげる会」がその実質であった。そして、第2回協議は2001年2月27日に行われたが、これは、審査直前の見解の確認作業が中心であって、報告書作成のための事前協議ではない。つまり、1980年代の末に日本のNGOがこの条約機関のプロセスを活用するようになって10年以上を経過しても、報告書作成過程における事前協議を通じてのNGOと政府の国内対話は、まったくといっていいほど前進しなかった。審査の中で、ある委員は、政府とNGOが人種差別あるいは民族差別という共通の敵に対してともに闘うことの重要性を指摘したが、この最も基本的な部分が共有化されていない状況は深刻でさえある。
これは、同時に「最終所見」のフォローアップの課題にもつながる。4月16日には、参議院議員会館でフォローアップ会議が開催されたが、日本政府の最大の論調は、政府の説明が委員会に理解されなかったことが極めて残念というもので、彼らの立場に立てば、この「最終所見」は、不幸な誤解の産物とされるものであった。
フォローアップ会議で明らかにされた日本政府の今後の日程は、「最終所見」に対する各省庁の見解を所管官庁である外務省が、5月中にはまとめるというものであった。これを受けて新たな会議の開催が必要とされるが、それは、国会がこの国際社会の勧告の実現を行政府に対してどう監視するかという課題でもある。同時に、2年に1度の報告義務によって、日本政府は2003年1月までに次回報告書の提出を義務付けられており、2002年には新しい報告書作成の準備が始まるといってよい。つまり、フォローアップは同時に新たな準備作業に他ならず、NGOの国内的取り組みが再び試されることになるだろう。