コラム・人権教育
フィリピンのコミュニティ・オーガニゼーションに学ぶ
アジア地域で「人権教育のための国連十年」国内行動計画を策定した、二カ国のうちの一つがフィリピンであることをご存知であろうか。一九八六年二月、マルコスによる独裁政権がピープル・パワー(民衆の力)によってくつがえされて後,二度とこうした人権侵害が起きないよう、フィリピンでは人権について詳細な規定をもつ新憲法が制定され、教育のあらゆるレベルで人権教育を実施することが国家の義務と位置付けられた。このような、人権を最優先する社会意識を根底から支えてきたのが、フィリピンのNGOである。今回はそうしたNGOの最近の新しい「動き」を私の大切な友人の一人であるジェニー・デラクルス・オーストリアさんの仕事を通して紹介したい。なお、本稿は二〇〇一年八月に行ったインタビューをもとに再構成したものである。
オーストリアさんは一九九四年にフィリピン教育大学を卒業後、これまで7年間を「コミュニティ・オーガナイザーズ・マルチバーシティ(COマルチバーシティ)」(注)というNGOのトレーナーとして過ごしてきた。COマルチバーシティは、コミュニティ・オーガニゼーション(コミュニティの組織化。以下COと記す)のトレーニングを専門に行うNGOとして一九九四年に発足した。マルコス時代にNGOの人権活動を支えてきた世代からみれば、彼女はいわばNGO第二世代。また彼女の働くNGOも同様に「新しい時代」を象徴する組織である。
フィリピンにおけるCOには、長い蓄積があり、マルコスの圧政下では、キリスト教会(フィリピンでは9割以上がカトリック教徒)が重要な役割を果たしていた。「解放の神学」の影響を受け、聖書の中のキリストの行いを、貧しく抑圧された民衆を解放するためのものとして読み直し、自らもそうした行いをコミュニティの中で実践しようとする運動が発展した。このような、聖書の学習から発展した共同体(キリスト教基礎共同体)は、やがて住民が地域の問題解決に取り組む拠点となり、そのプロセスを通して人々の社会に対する批判的精神や政治意識も覚醒された。そしてこれが、後のピープル・パワーの土台となった。
このようなCOの重要性は、一九八六年に独裁政権が倒された後も減少するどころか、ますます大きくなりつつある。なぜならば、民主化が進展すると、草の根の人びとが政策決定の場に参加し、発言するような制度的・法的スペースが増すからである。だからこそ、今までこのような場から疎外されてきた貧しい農民や漁民、都市の貧困層、先住民などがエンパワーされ、自らの権利を守るために組織をつくり、決定の場に「実質的に」参加する力を付けることが必要となる。COマルチバーシティもこのような背景から生まれた。
COマルチバーシティは、コミュニティの中で具体的なプロジェクトを直接実施する団体ではない。ある地域で何らかのプロジェクトの実施を計画しているNGOや、さまざまな問題に直面している地域の住民団体などから依頼を受けて、その地域の住民の組織化とトレーニングだけを専門的に実施している。
たとえば、ミンダナオ島の東ダバオ州の例を紹介しよう。資源豊かなこのエリアで、政府が多数の製紙会社に伐採許可を与えたため、環境破壊がおこり、森林で暮らしてきた先住民マンダヤの生活が脅かされるようになった。先祖の代から暮らしてきた土地を、近代的な法律に基づき登記することもなかった人びとは、森そのものへの出入りも禁止されてしまい、生活の場所と糧を失なったのである。この地域で長く先住民の教育活動に従事してきたNGOは、マンダヤのこうした問題を解決するために、COマルチバーシティに住民の組織化とトレーニングを依頼したのである。
このような場合、COマルチバーシティのトレーナーはまず、依頼を受けた地域に住み込むなどし、住民の日常を把握し、住民のキーパーソンを発掘し、ともに問題の発掘・分析・問題解決のための戦略づくりを行う。その後、住民集会などを通じて地域を組織化し、住民自身の手で行動計画をつくり、これを実践していけるように支援を行うのである。この場合の行動計画には、政府や行政との交渉や、何らかの事業の立ち上げなどが含まれる。こうした過程に半年から一年をかけた後、トレーナー自身はコミュニティを離れる。後はこれに代わって、住民が主体となって活動とトレーニングを継続することとなる。つまり、COマルチバーシティは、外部から持ち込まれる開発プロジェクトや問題などに対して、住民が受身ではなく、主体的にこれらに関わり、集団として意思決定し、行動していくことができるような組織づくりとトレーニングを専門に行うのである。
「でも、それは決して簡単な仕事ではありません。COのためにコミュニティに行くと、『こんどは一体何のプロジェクトをくれるのか』と住民から聞かれることがあります。私たちは何も持たずにきました、と伝え、COは、何かをもらうよりも、もっと『持続可能な発展』をあなたがたに保障するのだということを、理解してもらうところから始めなければなりません」とオーストリアさんは付け加えた。
一方、トレーニングは決して画一的なものではない。地域の文化の豊かさから、トレーナー自身が学び、与えられることも多い。
「東ダバオの取組みは、単に土地の権利を要求する運動にとどまりませんでした。対話と学習を続ける中で、多くの住民が、先祖伝来の土地の権利を要求することは、自分たちの民族としてのアイデンティティを取り返し、守ることでもあると気づいたのです。ですから、トレーニングが進むと、住民リーダーたちは次々とクリエイティブで"文化的な"方法を取り入れるようになりました。歌や踊りをトレーニングに取り入れたり、高齢者にかつての生活についてインタビューを実施したりします。そうしてこの土地は自分たちの文化や伝統の中で守り育てられてきた土地であることを確認し、証拠を整え、彼らはこれを携えて州都にある役所まで、十二時間も歩いて交渉にでかけたのです」。
フィリピンのCOは、これまで「問題解決志向のアプローチ」を中心に据えてきた。COは、漠然と人権問題の深刻さや重要性を理解するために行われるのではなく、あくまで各コミュニティにおける現実の、具体的な問題を解決するために実施されるのである("CO"の部分を、"人権教育"、に置き換えてもみてほしい)。COマルチバーシティが関わる「具体的な問題」にも、例えば児童労働の問題、輸出加工区の労働環境の問題、スラムの強制退去、採鉱や森林伐採による環境破壊など、多様なものが含まれている。そしてCOの焦点は、最も貧しく、差別を受け、政治的に無力化されてきた人びとのエンパワメントに向けられてきた。こうした方向性の基本はもちろん今も変わらない。
しかし、ピープル・パワー後の民主化の進展が、COに、さらに新しい変化をもたらしていることも事実である。たとえば、マルコス政権下にあった70年代のCOは、フレイレの教育学、さらにシカゴの公民権運動家であったアリンスキーの組織論の影響を強く受けており、NGOの活動家はコミュニティに住み込んで住民リーダーのトレーニングを行い、人びとを組織化することによって行政闘争を展開し、要望を実現するという「対立型コミュニティ組織論」のスタイルを主流としていた。しかし、フィリピンに限らずこうした対決・要求型の運動は、民主化の進展によって、政府や行政の中に一定の協調的姿勢が生まれたことによって、見直されつつある。住民が新しい施策や制度を利用し、時には行政と協力しながら問題解決をはかる余地が生まれたからである。COの中にも、このような住民と行政機関との新たな協調関係を支援する動きが生まれている。
COマルチバーシティでもここ数年間、世界銀行や政府、自治体といった従来とは異なる組織から、ファシリテーターを依頼されることが増えた。かつて民衆の立場からは「対立」する対象として捉えられてきた政府や行政諸機関が、プロジェクトの実施などに際して、草の根の人びとの考え方やニーズを知ろう、とする姿勢を持つようになったからである。こうした諸機関とコミュニティのリーダー、住民組織などとの対話の場が設けられ、その「間を取り持つ」ファシリテーター役が、COマルチバーシティに依頼されるようになった。これは単に、両者の間を調整する、という役割にとどまらず、COのプロセスをコミュニティのレベルから、行政や政府機関などへと広げていく試みとも見ることができ、興味深い。
草の根のコミュニティで始まったCOは、今、より大きな世界へと広がりつつある。
「COとは、あらゆる仕事、プロジェクトの基礎にあるべきものです。COによって、あらゆる人びとのエンパワメントと参加が実現されてこそ、そこで実施されるプロジェクトも持続可能となるからです」という言葉を聞きながら、日本の人権教育・啓発にも、COの視点が必要ではないかと改めて考えさせられた次第である。
(注)一九九四年の発足時は、CO-TRAIN(Community Organization Training and Research Advocacy Institute)という名称であったが、一九九八年に現在の名称に改称した。マルチバーシティは、diversity(多様性)とuniversity(大学)をかけた言葉であるという。フィリピンにおけるCOの実践が多様であることを表すと同時に、各地でCOに取り組むオーガナイザーたちが、それぞれの実践を持ち寄って振り返り、理論化、概念化への思索を深める場となるよう期待が込められている。