特集
シェルは、135カ国で事業を営み、社員96,000人を擁する世界で屈指の多国籍企業である。ナイジェリアは、歳入の80%を石油から得るが、その45%はシェルの操業に依存する。1995年、軍事独裁政権が反体制の人権・環境運動家のケン・サロ―ウイワ氏ら9人を逮捕した。各国政府や人権・環境NGOは、公正な裁判の実施を願って、ナイジェリア政府に強く要望する一方、シェルも同国に於ける存在の大きさを生かして働きかけをして欲しいと望んだ。しかしシェルは、期待に応える顕著な動きを見せなかった。見せかけの裁判ののち、9人は絞首刑に処された。シェルは、内政に関わることを避け、実質的に圧政に加担した、として社会的責任を問われ、批判の的になった。
同じ1995年、シェルは、北海に浮かべていた原油貯蔵・積出し設備(ブレント・スパー)が陳腐化したので大西洋の深海に投棄すると発表した。3年の月日をかけて合法性・経済性・安全性・環境への影響等を検討した結果の最善策である、と説明した。これに対し、グリーンピースら環境NGOは真っ向から海洋投棄に反対し、強力な反対運動を展開した。
最善であると自信を持って下した二つの経営判断が、不買運動や実力行使を含む猛反発を受けた。抗議デモに囲まれた1997年の株主総会では、人道・環境への取り組み改善を求める議案に10%もの株主が賛同した。国連、他国政府、そして社会から、同社に注がれる眼差しはきつくなった。なぜか。シェルが考えた最善策が受け入れられず、抵抗を受けるのはなぜか。
「不意打ちを食らった」シェルは、よってきたる原因を探るべく徹底的な究明を行った(注1)。「世界の価値観は急速に変化した。既成の権威への信頼は薄らいだ。人権と環境の保護が企業に期待されている。シェルは、時代離れ・傲慢と写るほど孤高にして内向きの企業文化だった。我々も変わるべきだったのだ。今の時代は、透明でオープンな対話と相互理解を重ね、よき企業市民としての在り方を追及すべきなのだ」。これが結論だった。
1998年、シェルは経営体質をガラリと変容した。ナイジェリアでの対応を反省して、世界人権宣言の支持表明・行動指針への取り込み、人権団体との定期対話、人権活動家の採用、グローバル・コンパクト/グローバル・サリバン原則/OECD多国籍企業ガイドライン/グローバル・レポーティング・イニシャチブ(GRI)などへのコミットメントを表明した(注2)。ブレント・スパーに関しては、海洋投棄案をキャンセルした。世界中から処分策を募集し、6つの案に絞り込んだあと、欧州の4都市で評価・意見を求める対話集会を開催した。結果として、1998年、輪切りにして岸壁拡張に転用する案がスムースに実施に移された。
さらにまた、経済活動・環境保全・社会的かかわりの三要素(トリプル・ボトムライン)のいずれに偏することなく、バランスをとって持続可能な成長(サステナビリティ)を図る経営路線を明確にした。1999年から、トリプル・ボトムラインに関わる実績と課題を年次報告「シェル・レポート」にまとめて全ての利害関係者に公開し、理解と対話を求めている。ビジネス・モデルも修正して、太陽光など再生可能エネルギーの開発や温暖化への取り組み強化に踏み出している。
NGOがシェルという巨大な「山を動かした」事例は、世界の企業に衝撃を与えた。教科書や学術誌にもしばしば取り上げられるところとなった((注3)。いまや、ダウ・ケミカル、デユポン、ナイキ、その他多くの企業がトリプル・ボトムラインを意識したビジネス・モデルを取り入れ始めている。
これまで、同和問題、ジェンダーをめぐる課題など、個々の具体的な人権問題への取り組みが真剣になされて来た。これは今後も継続されねばならない大切なことである。
加えて、近年はグローバル化の進展の影響が見られる。国際ビジネスの経験を通して人権思想を身に付けた企業人が増加している。贈賄、スエットショップ(搾取工場)、人権無視国家からの事業撤退など、海外での企業行動についての国際監視も強まっている。外国の株主・機関投資家が増え、日本企業に企業統治改善を要望し始めている。外国人株主がミャンマーからの事業撤退を求めて株主提案を提出する事態も考えられる。
最近、最も顕著なのは、人権を含む倫理コンプライアンス・プログラムを企業内に根付かせ、倫理的価値観に基づく企業風土を形成する努力がなされていることである(注4)。人の尊厳を中核に位置付けることによって、地味だが基本的な人権への取り組みが着実に始まっていると言えよう(注5)。経営理念・価値観・行動規範・コンプライアンス(法令遵守)を単なる飾りではなく、トップのリーダーシップ、経営計画への織り込み、対話、教育研修、相談制度などを通じて定着させようとしている。また、倫理的価値観へのコミットを人事考課の評価項目に取り入れて昇給・昇進の判定材料とするなど、徹底した施策をとる企業も現れている。人権尊重を含む企業倫理高揚への動きは、不祥事のリスクの回避だけでなく、企業の社会的評価を高め、顧客や投資や優秀な人材の確保などを図る経営戦略ともなりつつある。
また、人権を含め社会的責任を果たす企業は評価され、報われるべきであるとして、そのような企業を支援するシステムが具体的に提案されている。一つの試みは社会的責任投資(SRI)である。環境にやさしい企業あるいは社会貢献を行う企業を選んで投資信託が組まれ、それを通じて共鳴する投資家の資金が供給されている。
今夏には、倫理コンプライアンス・プログラムに取り組んで誠実な経営を展開しているかどうかを企業が自己評価するための基準(R-BEC001(注6))が発表された。この基準に即して企業が自社の取り組みを開示するならば、誠実な企業を選択したファンドが設定出来る。現実に第三者機関がこのような調査を実施し(注7))、今春にはこの結果を用いた倫理ファンドが設定される筈である。倫理的に誠実な企業が組み込まれて直接金融の道がさらに広がることであろう。
社会に占める企業の力は大きい。企業の人権に対する取り組みが着実に改善されることが望まれるし、事実、企業は努力を重ねるであろう。同時に、例えば薬害や狂牛病への行政の対応、医療の過誤問題などを見るとき、人の尊厳を大切にする意識が、社会のさまざまなセクターでも歩調を揃えて定着して欲しいと願わずにはいられない。
注1.
取締役会に「社会的責任委員会」をおき、組織構造、仕事のやり方、リーダーシップの質、社会との関係、将来のビジョン、企業イメージ・評価など、多方面の見直しを行った。10ヶ国の7,500人の一般人、25カ国の1,300人のオピニオン・リーダー、55カ国の600人の社員に面接調査した。
注2.
いずれも、企業行動の基準を自主的にまとめたもので世界標準を目指す。グローバル・コンパクトは、国連のアナン事務総長が提唱した人権・労働・環境に関する9原則。グローバル・サリバン原則は、サリバン師が企業の社会的責任として規定した人権・労働・地域社会に関する諸原則。GRI(グローバル・レポーティング・イニシャテイブ)は、シェル・レポートのように、経済活動・環境保全・社会的かかわりへの取り組み結果を年次報告としてまとめ、第三者の監査報告を付し、全ての利害関係者に開示する。わが国の企業もGRI路線の年次報告書を発行し始めている(キリン、富士ゼロックスほか12社)。このほかにも、企業の行動指針(コー円卓会議)、SA8000(国際労働規格・認証)、AA1000(アカウンタビリティ指針)など多くの基準が提案されている。
注3.
例えば、Laura P. Hartman, Perspectives in Business Ethics(Second Edition, McGraw-Hill/ Irwin 2001) は Philip Mirvis,"Transformation at Shell: Commerce and Citizenship,"Business &Society Review 105:1 (Spring 2000), pp. 63-84 を採録している。
注4.
制度的な進歩が後押ししている。例えば経団連「企業行動憲章」改訂、金融庁による金融機関コンプライアンス検査、経営倫理実践研究センター設立、国家公務員倫理法・改正雇用機会均等法・改正不正競争防止法等の施行など。日本コーポレート・ガバナンス・フォーラムが、昨年末に一部・二部上場企業を対象に行った調査によれば、
企業倫理の基本方針を策定.........82.2%
倫理綱領、行動憲章など公式の文書を作成している...........................54.53%
従業員対象の企業倫理教育を定期的に行っている..............................43.07%
注5. 例えば、イトーヨーカドーは、グループ企業行動指針の前文で「全ての人々の人権と尊厳を尊び、国際社会の多様な価値観を尊重しつつ社会的責任を果たす」(抜粋)と述べている。
注6. www.reitaku-u.ac.jp参照
注7. www.integrex.jp参照