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国際人権ひろば No.42(2002年03月発行号)

アジア・太平洋の窓

NGOから見たアフガニスタン復興の課題

谷山 博史(たにやま ひろし)
日本国際ボランティアセンター(JVC)事務局長

空爆が続く中での復興閣僚会議

 アフガニスタンの復興に世界の注目が集まっている。去る1月21日、22日に東京で開催されたアフガン復興閣僚会議では1年間で18億ドル、5年間で45億ドルの資金協力が約束された。しかし、復興に向けた議論の最中にもアフガニスタンではまだ米軍による空爆が続いている。昨年12月の半ば以降、アフガニスタンでの軍事行動の報道はめっきり減った。私たちはもう戦争は終わったかのように思ってしまっているのではなかろうか。

 現在行われている米軍による空爆と地元勢力との協力による地上戦は東部のパクティア州や南部のヘルマンド州に重点が移っている。地域的には限定されているが、昨年までの空爆でアルカイーダやタリバンの主な軍事拠点がほぼ破壊されてしまったために、両組織の残党がいると思われる村村に対する攻撃に移っている。そのために関係のない村人が犠牲になっている。12月21日には暫定行政機構の発足式に向かうパクティア州の部族評議会のメンバーの乗った車両が空爆されて30人以上が死亡。12月29日にはパクティア州ガルデス近郊の村への空爆で52人の村人が死亡。2002年1月3日には同州のカスカイ村、コドヤキ村への空爆で32人が死亡。2月上旬にもパクティア州でCIAの無人偵察機によるミサイル攻撃で村人3人が死亡した。

 こうした情報が私たちにはすでに伝わらなくなった。空爆の被害はふつう犠牲になった村の部族長が非難の声をあげ、それをパキスタンの地元新聞が取り上げる。大手メディアが直接取材することはない。そもそも今回の米英軍による軍事行為は国際法の裏付けを欠いた超法規的行為であるために、戦場で違法な残虐行為があっても見過ごされてしまう。メディアによる従軍が許可されなかったために、報道は「大本営発表」に頼っているのが実情である。日本が戦時中に経験したメディア統制が、国際規模で私たちの情報源をコントロールしていると考えざるを得ない。

 復興は人権と人道に反する暴力、違法な軍事行為を否定することからスタートしなければならない。なぜなら、復興協力が空爆やその背景となった周辺国、大国のアフガンへの軍事的、政治的な介入を糊塗することになりかねないからである。もしこうした介入が歴史の空白の中で忘れられてしまうとすれば、またまたアフガニスタンは外国の利害の争奪に翻弄されることになる。

NGOの参加問題

 アフガン復興閣僚会議にはアフガニスタンのNGOからの参加者27名を含む40数名のNGOが招待された。しかしNGOに対する政府の対応はとても参加者を遇するものとはいえなかった。閣僚会議という会議の性格上、NGOはオブザーバー参加しか認められないのは致し方ないかもしれない。だが、NGOはオブザーバーとしてさえ会議場での傍聴を許されず、別室でモニターを見ることしかできなかった。(最終日の最後の1時間だけ傍聴を許された。)NGOは会議での発言の機会を与えられなかった代わりに、会議前日の20日に外務省の計らいでNGOヒヤリングが持たれ、意見を述べる機会が与えられた。聞き役としてNGOの発言を取り上げたのはニューヨーク州立大学の教授である。彼はこのヒヤリングの結果を翌日の会議での5分間のスピーチで報告した。しかし、報告の内容は事前にNGOには知らされなかった。

 日本政府及び他の議長国のNGOに対する対応は、ちょうど10年前の1992年に同じく日本が議長国となって東京で開催されたカンボジア復興閣僚会議と比べて大きく後退した。

 1991年、カンボジアはパリ和平協定によって内戦とポルポト時代、そしてまた戦争という20年に亘る戦乱と混迷の時代に終止符を打とうとしていた。この和平合意を基礎に翌年の閣僚復興会議を皮切りに国際社会によるカンボジアへの復興協力が始まったのである。

 カンボジア復興閣僚会議でNGOは正式なオブザーバー・ステータスが与えられ、NGOの代表4名が会議に参加した。これは翌93年から東京とパリで毎年交互に開かれたカンボジア復興国際委員会(ICORC)でも継承された。

 私は92年から94年までJVCのカンボジア代表をしていたため、93年パリで開かれた第1回ICORCにカンボジアで活動するNGOの代表の一人として参加した。このときNGOが獲得した正式なオブザーバー・ステータスというのは、1)会議の全期間参加できる、2)各国の代表と同等にスピーチの時間が与えられる、3)NGOの提出する資料が会議の正式文書として採用される、4)会議に参加するNGOの代表はNGO側が選出した代表を受け入れる、というものであった。今回の復興会議ではこれら①から④までのどれ一つとして満たされることはなかったのである。

復興調整のメカニズム

 復興には長い時間がかかる。膨大な額の援助を短期に実施するのではなく、アフガニスタンの政府と人々の援助受け入れ能力を考慮に入れた長期的で木目の細かい援助が必要になってくる。それというのも、復興援助は往々にして援助国・機関が功や援助にともなう利益を競うからである。20年以上も行政が麻痺状態にあった国で、多額の援助が流入すれば、人々が自らの手で復興計画を立て、実施していくことができず、援助国や機関が一方的に援助を押し付けることになりかねない。復興の過程を通して、アフガニスタンの行政や住民組織が復興とその先の開発を計画し実施する能力をつけていくよう援助する必要がある。

 私が復興協力の調整会議へのNGOの参加にこだわるのは、復旧・復興の現場で活動するNGOが現在のアフガニスタンでは人々のニーズと意見をもっとも効果的に反映する立場にあるからである。同時に、長年政府に代わって地域における社会サービスを担ってきたNGO、特にアフガニスタンのNGOには経験と能力に秀でたものが多い。NGOが政府と協力しながら、復興と開発を担う行政官を育成する必要も出てくるのである。

 復興援助で配慮しなければならない点をあげるとすれば、項目としては次のことがあげられる。1)アフガニスタン人の主体性を尊重する、2)地域社会や既存の努力を尊重する、3)援助競争で援助を歪めない、④援助で紛争を助長させない、⑤人権と社会開発を重視する。

 総じていえば、復興協力の成否は、いかにアフガニスタンの人々の主体的な努力を国際社会は有効に支えていくことができるかということである。

 アフガニスタンの復興はゼロからの出発だとよく言われる。しかし、アフガニスタンの人々は長い戦乱の時代にあっても地域社会の結束と自助努力によって地道に地域の再建に取り組んできたのである。そして地域社会の自助努力を支えてきたのがNGOの活動であった。地域のニーズを吸い上げ、国際社会の支援をどう配分していくかが最も難しいところである。

 こうした課題を満たすためには、援助調整メカニズムを確立する必要がある。地域ごとの援助調整機関にNGOが参加する。保健、教育、農業などの分野ごとの援助調整機関にNGOが参加する。国レベルの援助調整機関(復興閣僚会議では4カ月ごとにカブールで開かれる執行グループ会合)にNGOが参加する、などである。

 さらに、復興援助で何が行われているかを常にNGOからの現場の情報をもとに国際社会が監視する必要がある。各国ドナーが不必要な援助を行っていないか。援助調整を経ずに抜け駆けの援助を押し付けていないかなどを監視するのは、それぞれの国の市民の責任である。日本のNGOもアフガニスタンやアフガニスタンで活動する国際NGOとの連携を作り始めている。市民による国際連携によって、二度とアフガニスタンを各国利害の草刈場にするようなことを許してはいけない。

JVCの取り組み

 日本国際ボランティアセンター(JVC)は、2001年10月よりアフガンNGOのOMARインターナショナルと協力して、アフガン東部ジェララバード周辺の農村地域に避難している国内避難民を対象に緊急医療支援と食糧支援を実施している。2002年2月からは、OMARの巡回医療活動を人的にも支援するため現地に医者と看護婦を派遣した。復興の曙光が見えるなか、未だにアフガン人の危機的な状況は終っていない。常に現場に足をつけてアフガンの人々の苦難と希望に付き合って行きたいと思う。(詳細はホームページ参照http://www.jca.apc.org/jvc/)