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国際人権ひろば No.44(2002年07月発行号)

肌で感じたアジア・太平洋

占領終結こそが平和への道~パレスチナはいま

清末 愛砂 (きよすえ あいさ)
大阪大学大学院国際公共政策研究科博士後期課程

死と隣りあわせの生活

 わが子の死を予期するパレスチナの親たち。登校中にイスラエル兵に撃ち殺されるかもしれない、あるいは授業中にイスラエル軍の攻撃で殺されるかもしれない。いや、あるいは下校中に・・・。わが子の手に親や子ども自身の名前を記しておくという。殺されたときに、誰の子どもなのかが分かるようにするために。

 留学先の大学院で、私はパレスチナ人留学生と親しくなった。当時、彼は家族をガザに残したまま留学生活を送っていた。ある日、いつもは毅然としている彼が、目に涙を浮かべながら、上記の話をしてくれた。家族の無事を確認するために、毎晩電話をかけているというのだ。こんな残酷なことがあるだろうか。自分の家族が常に死と隣り合わせになるなんて。

初めてのパレスチナ訪問から学んだこと

 2000年の年末から2001年の年始にかけて、私は、初めてパレスチナの地に足を踏み入れた。自治区の難民キャンプで、攻撃の被害状況や生活の様子を聞いたり、難民の帰還権を求めて活動しているNGOや女性団体にインタビューを行った。1987年に始まった第一次インティファーダ(民衆蜂起)に比べると、2000年9月に始まった第二次インティファーダに対して、イスラエル軍がより強硬な態度で臨むようになったという証言を繰り返し聞いた。弾圧がよりひどくなった結果、アメリカから供与されている最新兵器によって、多くのパレスチナ人が殺される日々が続いていた。

 私の友人の話は、占領下で繰り広げられている数多くの蛮行の一例だった。あまりにもはっきりとした不正義でありながら、パレスチナ人に対する暴力は問われない。それどころか、「パレスチナ人=テロリスト」というレッテル貼りが、マスコミの報道などによってなされていた。その一方で、「テロ一掃作戦」を標榜するイスラエル軍の攻撃はさらにひどくなっていった。抑圧されている側のパレスチナ人がこのまま殺されていくのを黙認しておくことはできないと思ったとき、もう一度パレスチナに行く決意をした。

国際連帯運動への参加

 3月28日に、パレスチナ自治区ベツレヘムに入った。翌日から始まる国際連帯運動の第三回キャンペーンに参加するためだった。国際連帯運動は、非暴力によって、イスラエルの占領に抵抗するパレスチナの新しい社会運動である。パレスチナの抵抗運動ではあるが、実際の活動の現場には、諸外国から集まった平和活動家たちが「人間の盾」として、様々な活動(駐留するイスラエル軍に対して平和行進を行ったり、難民キャンプに泊まりこみ、イスラエル軍による家宅捜索に抗議したり、パレスチナ人の救急隊員と一緒に、救急車に同乗することによって、救急車に対する阻止・発砲を防ぐなどの活動)を行っている。

 3月29日の朝、イスラエル国防省は「テロ一掃作戦」の継続を宣言し、自治区の主要都市ラマッラーは、完全にイスラエル軍の制圧下に置かれた。私が滞在していたベツレヘムに対しても、いつイスラエル軍が侵攻してきてもおかしくない状態にあり(4月2日の早朝に侵攻された)、国際連帯運動のオーガナイザーや行動に参加するために欧米諸国などから集まった人々は、目前に迫る侵攻に対して、いま何をするべきなのかを話しあった。私たちが一番気にかけていたことは、難民キャンプに対する大攻撃であった。イスラエル軍は、難民キャンプを「テロリストの巣窟」と勝手に見なし、猛攻撃をかける可能性があったのだ。キャンプの住民は、迫り来る攻撃に震えながら生活をしていた。私たちは、攻撃が夜に行われることが多いため、夜はキャンプに泊まりこむことにした。攻撃と家宅捜索に備えるためである。

 4月1日、私たちはベツレヘム近郊の街ベイトジャラの難民キャンプを連帯訪問するために、平和行進をしていた。ベツレヘムからベイトジャラの街に入ったあたりで、イスラエル軍の装甲車が近づいてくるのが見えた。まさかその後、発砲されるとは、この時点でほとんどの人が予想していなかっただろう。接近してきた装甲車に乗っていたイスラエル兵が、私たちに対して、自動小銃で撃ち始めた。私たちは、装甲車に対して、抗議行動をしていたわけではなかった。難民キャンプに向かっていただけだった。兵士は興奮していたのだろう。十発以上連射してきた。その発砲により、私を含む7名が負傷するという惨事になった。パレスチナに行く前、撃たれるかもしれないとは思っていた。怖かった。

 それでも、国際連帯運動に参加したいという気持ちの方が強かったために、私はパレスチナに向かう決心をしたのだった。自分の予想が現実のものになると、さすがにパニックになるものだ。撃たれている瞬間、「えっ、まさか、なぜ撃つの?」と私は何をしていいのか分からなくなった。痛みが走ったものの、その後は、パニックのせいか、痛みが吹っ飛んだ。非暴力トレーニングを思い出し、落ち着くよう自分に言い聞かせていた。

占領・植民地化の終結こそが平和への道

 パレスチナ人が行進の先頭に立っていたら、きっと、兵士は頭や心臓を目がけて、撃ってきたであろう。パレスチナ人は、パレスチナ人というだけで殺されるのだから。私たちはパレスチナ人ではないというだけで、撃たれる箇所が異なる。生きることを否定されているパレスチナ人。イスラエルによる占領・植民地化が続く限り、パレスチナでは今後も抵抗運動が続いていくだろう。私が参加した非暴力の抵抗運動もさらに多くの外国人が加わって、広がっていくことだろう。イスラエルによる占領の終結こそが、パレスチナに平和をもたらすことにつながるはずである。オスロ合意では全くもってなされなかった占領の終結こそが、今、一番必要とされていることではないだろうか。

 1993年8月20日にオスロにて署名されたPLO(パレスチナ解放機構)とイスラエル間の「パレスチナ人のための暫定自治政府協定に関する原則宣言」。同年9月13日には、ワシントンで、アラファト議長とラビン首相との間で、オスロ合意を成文化した「パレスチナ暫定自治協定」共同宣言が調印された。

注:著者は、2002年7月現在、英国のブラッドフォード大学博士課程に留学中。専攻は女性学。