特集:東ティモールの旅立ちPart 2
2002年5月20日午前0時、東ティモール民主共和国(以下、東ティモール)が誕生した(注1)。UNTAET(国連東ティモール暫定統治機構)から東ティモールへの主権移譲が、コフィ・アナン国連事務総長によって宣言された。独立式典会場は歓喜の声に包まれた。
歓声が轟く中で、胸に「暴力を止めよう」と書かれたバッチを付けた人々が警備を担当していた。服装は小綺麗ではあるが立派とは言えない。FALINTIL(東ティモール民族解放軍)の元兵士たちである。式典の半ば、やや年齢の高い男女の元兵士100名ほどが雛壇に上がり、人々から栄誉と感謝の拍手を受けた。彼(女)らの顔には深い皺が刻まれていた。長年山に籠もりインドネシア(軍)と闘った彼(女)らは解放闘争の象徴であった。闘いが勝利した後、武装解除などUNTAETの指示に忠実に従った。
だが、かつて独立した国々で元ゲリラ兵士が社会の不安定要因となったことを知ってか知らずか、UNTAETの彼(女)らへの扱いは粗略であった。多くは未だに再就職もままならず困窮していると聞く。
しかし、彼(女)らは不満を胸に納め我慢忍従しているだけではなく、人々に対し、やっと勝ち得た平和、自由そして独立を守るためもうしばらくの我慢と団結を呼びかけていた。武器ではこれらが得られないこと、平和と自由こそがこれからの復興・再建に必要であることを示していた。
東ティモールの歴史は苦難の連続であった。約400年に及ぶポルトガルの植民地支配。その間、1942年から日本の敗戦までの3年間、日本軍の軍政支配下(注2)に置かれた。そして1975年12月8日から1999年9月後半InterFET(東ティモール国際軍)が展開するまでの24年間、苛烈・苛酷なインドネシア支配下に置かれた。人口の1/3にあたる20万人が殺害、あるいは飢餓の犠牲となった。1999年8月30日のインドネシア支配を拒絶した歴史的な「住民投票」後、インドネシア軍とその手先インドネシア併合派民兵の大規模な殺戮と破壊は全世界に報道された。にもかかわらず、国際社会の対応は素速いものとは言えなかった。インドネシアへの制裁すら議論されなかった。
国連脱植民地化特別委員会は2002年6月4日、「東ティモールが、非自治地域リストから削除されたことは、真に脱植民地化特別委員会が長年苦闘してきた目標の具現化である」と最大の懸案であった東ティモール問題が解決したことを歓迎し声明を発表した。果たして国連始め国際社会は長年「苦闘」したのだろうか。苦闘したのは東ティモールの人々そのものであった。忍耐強く我慢強い人たちであったと思う。
もし国連が、1975年インドネシアが侵略したとき有効に機能しておれば苦闘が24年間も続かなかったはずである。国連人権委員会もうまく機能したとは思えない。同国の度重なる重大な人権侵害に有効に対処したとは言えない。
日本政府は、東ティモールをめぐる外交において、常に冷淡、時には冷酷でさえあった。平和と自由、侵略からの解放を求める東ティモールより侵略者スハルト・インドネシアを支援し続けてきた。人権より経済利益を優先させた。
FALINTILの元兵士たちのみならず、東ティモールの人々の忍耐と我慢強さは、今後の東ティモール復興のポジティブな要因の一つと思える。2年半に及ぶUNTAETの統治は様々な問題点を抱えていた。国連にとっても、破壊された経済やインフラなどマイナス状態からの復興、国造りは初めてのことであり、手探りであったのは事実だ。しかし、現在に至るまで80%と言われる失業率はさほど改善せず、経済やインフラの復興は遅れ気味である。「国連景気」「援助景気」を当て込んだ外国資本が流入し、海外からの援助を吸い取ったが、その対処なども後手に回っていた。人々の不満は充満していた。労働争議もあった。しかし、それらは暴動や暴力には至らなかった(注3)。話し合いを仲介するNGO・政党などが解決に努力した。インドネシア支配時代から命がけで活動していたNGO、新しくできたNGOや協同組合などが、乏しい資金・資材や人材不足を抱えながらも様々なところで活動している。自力での問題解決・更生を目指そうとする活動は復興を支える柱の一つになりつつある。
復興の前途に難問が山積していることは誰もが認める。急務の問題の一つはインドネシア・西ティモールに連行された難民帰還問題(注4)と元併合派民兵の処罰問題である。一部の人々は併合派民兵になるよう強制され、破壊活動に加わった。これらの人々も西ティモールに連れて行かれ難民となった。これら元併合派民兵が帰還した場合、住民との関係修復をどうはかるかが大きな問題となっている。
重大犯罪、即ち殺人、拷問、レイプなどを犯した者は司法の裁きを受けさせることになっている。しかし、「軽微」な犯罪行為に関し、司法手続きを経ず被害者との間で償いと和解を行うことになった。その機関として「受容・真実・和解委員会」が設立された。あまりに多くの犯罪が行われたため「軽微」な犯罪を司法で裁ききれないからである。この委員会はインドネシア軍侵攻以前の1974年からの事件(注5)を扱うことになっている。
被害を受けた人の加害者へのわだかまりは簡単に消えるものでは無い。併合派民兵として(されて)加害者となった人々の社会への受け入れと和解は、今後の安定した社会を作る上で乗り越えねばならない問題である。委員会は人権問題を扱ってきた人たちが中心となって活動している。真実を明らかにし、東ティモールの伝統的和解方法も取り入れながら社会の再構築を目指している。ここでも人々の忍耐がこの成否の鍵を握っていると思う。
東ティモールの独立に対し「資源も乏しい貧しい小さな国が、独立国としてやっていけるはずはない」と冷笑する声がある。現在の東ティモールの復興状況や経済状態から国家の運営を心配する声もある。人々の安寧や国家の運営は国の規模で決まるものでは無い。
東ティモールより人口規模や国土の小さな国は幾つもある。日本などよりはるかに多くの天然資源を持ちながら、未だに人々が貧困にあえぐ国もある。同じポルトガルの植民地支配を受けたアンゴラや隣国コンゴ民主共和国は石油やダイヤモンドなど豊富な天然資源を持つ。しかし、それが内戦を誘発し、その解決を阻害させる原因となった。それらに群がる外国や多国籍企業、ブラックマーケットが富を奪いかつ内戦を煽った。内戦は人々を苦しめた。人々が得たのは互いの憎しみと貧困、大地に埋まった大量の地雷である。
東ティモールを侵略・軍事支配したインドネシアも天然資源大国である。しかし、一人あたりのGDPは日本の40分の1に満たない。天然資源はこの国にKKN(汚職、癒着、縁故主義)をはびこらせた。そして、外国政府、特に日本政府からの多額の援助無しには政権を維持できなくなった。
天然資源は、国家の繁栄や人々の豊かさをもたらすとは限らない。平和であること民主主義と自由があり、人権が保護されていることが人々の生活を保障し、国や社会を安定させる基本的条件ではないかと思う。東ティモールに天然資源が全くないわけでは無い(注6)。しかし、東ティモールの人々に期待する。天然資源を当てにした経済開発を優先するのでなく、平和、自由、民主主義、人権の先進国を目指して欲しいと。長年の苦闘を支え勝利を得たあなた方の忍耐強さは大きな資源であることを忘れないで欲しい。
注1:1975年11月28日、当時政権を掌握していたFRETILIN(東ティモール独立革命戦線)が独立を宣言した。15カ国が承認。これをもって独立したとする意見もある。
注2:第2次大戦当時、ポルトガルは中立国であった。日本は宣戦布告無しにポルトガル領東ティモールに侵攻・占領した。4万人が犠牲となったと言われている。従軍慰安婦やロームシャにされた人も多い。ビデオ「Avo Speak Out(アボ・スピーク・アウト)」(東ティモールの日本軍性奴隷制サバイバーたちの証言・英語11分)などに証言がまとめられている。
注3:UNTAETの犯罪報告を見る限り、人口あたりの犯罪率は低い。暴力・傷害事件もあったが、それらの背後には残留併合派民兵らが関与している場合が多いと言われている。
注4:「住民投票」後、インドネシア軍と併合派民兵は25万人に及ぶと言われる東ティモール人をインドネシア・西ティモールに強制連行した。その後、帰還は紆余曲折を経ながらも進んだが、未だ5万人くらいが帰還できずにいる。その多くは元併合派民兵とその家族と見られている。また誘拐同然にジャワなどに連れて行かれた子どもたちの親元への帰還問題もある。この問題は併合派民兵組織の幹部らが深く関与している。解決には大変な困難が予想される。
注5:1974年からインドネシア軍侵攻までの間に内戦や衝突があった。その間の事件も扱う事になっている。
注6:ティモール島の南、ティモール海に海底油田があり開発が進められている。将来これにより経済を発展させたいと望む声がある。
参照ホームページ:
「東チモールに自由を!全国協議会」 http://www.asahi-net.or.jp/~AK4A-MTN/index.html
「ティモール・ロロサエ 情報」 http://www.asahi-net.or.jp/~gc9n-tkhs/index.html