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国際人権ひろば No.44(2002年07月発行号)

特集:東ティモールの旅立ちPart 1

レンズがとらえた東ティモール独立の日

小林 裕幸 (こばやし ひろゆき)
朝日新聞写真記者

 待ちわびた瞬間だった。民族衣装に身を包んだ人たちが太鼓のリズムに合わせて躍り、子どもたちの笑顔がはじける。02年5月19日の夜から20日未明にかけて行われた東ティモールの独立記念式典には、20万人の住民と92カ国から集まった代表が参加し、21世紀最初の国の独立を祝った。

 初めて東ティモールを取材したのは1999年8月。インドネシアからの独立か残留かを決める住民投票の時だった。国の将来を自分たちで決めようとする瞬間を取材したくて、現地に入った。しかし、独立派大勝との開票結果が明らかになった瞬間、小さな島は凄惨な現場へと姿を変えた。インドネシア国軍と結びついていた残留派の民兵が、住民を虐殺し、町を破壊し始めた。教会内に逃げ込んだ住民が虐殺されたり、家財道具を持って逃げようとする家族が皆殺しにされたりした。商店は略奪に遭い、町中の建物という建物に火が放たれた。銃口は、私たちマスコミにも向けられ、一時的に避難することを余儀なくされた。

 それから2年半、大きな犠牲を経て、やっとたどりついた独立だった。式典で「世界の国々の人と、同じところに立つことが今日初めてできた」と話す初代大統領、シャナナ・グスマオ氏の表情には、希望と、これから始まる国づくりへの覚悟がにじみ出ていた。参加した住民たちの笑顔は、ポルトガル、日本、インドネシアへと続いた支配と痛みの裏返しでもあるように思えた。

 しかし東ティモールは、一国の船出にしては、あまりにも大きな負担を背負っているのも現実だ。

 まず、アジア最貧国としてのスタートだ。人口80万人で目立った産業がない東ティモールには、税収も外貨獲得の機会もほとんどない。しばらくは、日本やオーストラリアなどが拠出する3億6千万ドルが頼りになる。

 市場で売られている日用品は、そのほとんどがインドネシア製で、独立したとはいえ、実質的な生活はインドネシアに頼らざるを得ない状況だ。住民の中には、子どもが義務教育を受けている間は、インドネシア領の西ティモールに住みたいという人たちも多い。教師不足などインフラが整わない祖国よりも、インドネシアの教育に期待している人も多い。国連の暫定統治下で、かつての10倍以上に跳ね上がった物価など、想像を絶するバブル経済の今後も懸念される。

 東ティモールを離れる前日の夕方、宿泊していたディリ市の海辺を歩いた。独立を記念して国連がつくった「People's Park」で、腰の高さほどしかないヤシの木の苗が海風に揺れていた。この木が大きくなる頃も、平和な国であるよう、そして、独立を選んでよかったと住民たちが思える国であるよう、願わずにはいられなかった。

(編集注:写真は、著作権の関係上、掲載を控えさせていただきます)