現代国際人権考
どうも最近の日本政府というか外務省というか、いや日本そのものがおかしくなっているぞ、と誰もが考えている。だが、待てよ、一日や一年でおかしくなるはずはない。根っこはずっと深いところにあるのではないか。おかしなことの一つ、瀋陽の日本総領事館で起こった世にも不思議な事件も起こるべくして起きたのだ。
私が新聞社のソウル駐在特派員だった1973年8月8日、当時亡命状態にあった現韓国大統領金大中氏が東京・九段のホテル・グランド・パレスから拉致され、ソウルに連行された。こんな無茶なことをするのは韓国中央情報部以外になかった。犯行現場から駐日韓国大使館一等書記官の金東雲の指紋が見つかった。公権力が事件に関わっていたのだ。
こういうとき国際慣例では「原状回復」、つまり金大中氏を日本に戻し韓国は日本に「謝罪」し、「犯人を検挙」して処罰し、二度とこんなことはしないという「再発防止」の措置をとることになっている。日本政府は、田中角栄首相、大平正芳外相だった。事件直後は「無分別ななれ合いはせず国際慣例に従う。変なゴマカシは時がたてばばれる」と格好のいいことというか、当然のことを言っていた。
11月1日、政治決着が行われた。午後3時半から韓国側が発表、これを受けて日本政府が了とすることになり、私たち13人の特派員は大使館4階の会議室で後宮大使(故人)から事前の説明を聞いた。
こんなに驚いたことは一生に何度もない。金大中氏の再来日はどこにもなく、金鍾泌総理(現自民連総裁)が翌日、謝罪特使として訪日、事件に幕を引くという。日本政府は韓国の秘密警察による主権侵害に目をつむり、金大中氏の人権、生命を見殺しにしたのだ。
この結果、金大中氏はその後も自宅で軟禁状態がつづき、2年4ヵ月後に逮捕され、80年の光州事件では日本での活動を理由に死刑の判決を受けた。このときも日本政府は抗議していない。
こんな馬鹿な話があるか、とぼう然とした。政治とは人の命を守り幸福を保証するもののはずだし、外交もその延長線上にあるはずだとそのときまで信じていた。日本人に対しても外国人に対しても同じはずだ。早く原稿を送らねばならない、と急いでエレベーターで一階に降りたら、ばったり主席参事官に会った。「ひどいじゃないですか。これが解決ですか。金大中氏が日本に行かない限り解決じゃない」とくってかかる私に、参事官はこう言った。「金鍾泌首相が謝罪特使で日本に行く。一国の首相が行くのですよ。外交的には大勝利です」。人権感覚はこのときからすでになかったのだ。彼は外務省きっての秀才といわれ、金大中事件の政治決着でも重要な役割を果たした人だ。現在でも外交評論家として大活躍している。
この政治決着には世界中が驚いた。ソウルではこんな噂が流れた。陳謝特使の金鍾泌首相に田中角栄首相が「金大中を日本に寄越さないで欲しい」と言った、この決着で田中首相は朴正煕大統領から3億円をもらったというのだ。そうとでも考えなければ韓国人にとって理解に苦しむ決着だった。この3億円の話は現在でもソウルで信じられている。日本という国は、主権を侵されても首相が3億円もらえばもみ消す、そんな国だと韓国人は腹の底では考えているということだ。
後日、ライシャワー元駐日大使は「日本は自国の主権が侵されたのだから、もっと強い態度に出てもよかった。日本政府がとった態度に私は失望した。金大中氏の釈放と日本への送還を断固として要求すべきだった。その要求がいれられなければ、日本は韓国との全ての関係を絶つとまで迫るべきだった」と私の同僚記者に語った。
事件から25年後、私は安藤仁介氏(同志社大学教授)に会った。日本人ではじめての国連規約人権委員会の委員として知られている。
「日本人の人権感覚が金大中氏に不幸な形で出てしまった。東ベルリン事件(1967年に起こった韓国中央情報部による拉致事件。西ドイツは被拉致者を全員取り戻した)では、ドイツはナチスで人権について汚点があったからがんばった。日本はやれる立場にありながら、やらなかった。金大中氏が再来日しなければ、田中政権が崩壊するおそれがあればやったでしょうが、日本人はそうは望まなかったのですよ」
ワールドカップ・サッカー一色で新聞・テレビから瀋陽事件が消えてしまった。主権という角度から見れば、瀋陽事件は金大中事件と同じで、日本政府は原状回復、連れ去られた5人の身柄を返すように求め続けなければならなかったのだ。「人道上の配慮」は政府・外務省の逃げ口上だった。いつまでたっても人権途上国から脱しきれない。
この原稿を書いているところへ、今度は北京の韓国大使館での亡命騒ぎの第一報が入ってきた。北朝鮮をめぐって東アジアは本格的に混乱の時代を迎えつつあるのかもしれない。サッカーならぬ主権、人権問題で日韓が比較されると思うと気が重い。