特集 歩いて見たフィリピンの人権教育 Part2
マニラの高校では、われわれのために「価値教育」の模擬授業を行ってくれましたが、言葉がわからないので申し訳ないなと思いながら生徒の顔ばかり見ていました。ネパタリ・A・ゴンザレス高校4年生の70人ほどは、若手のサビドン先生ひきいるテンポの速い質問に反応し、肘をぴんと伸ばして、われがちに手をあげていました。
教師の発問に体全体で応える風景は、日本なら小学校4年生までとしたもの。高校生だと目立たないように掌を見せるか、あげても肘の角度は90度が限界ですから、高校教師のぼくは正直とまどいました。見事な班別発表を見た後、ひねくれた教師の直感で「特別編成のクラスですか」と尋ねたら、やはりそのようでした。公開授業はぼくらも行いますが、生徒と先生がともに演じる舞台のような授業に出会ったのは初めてです。オープニングでは4人の女生徒によるイスラムの踊りが披露されました。
ぴかぴかのバロンタガログ※を着て教壇に立った先生と生徒が、ファーストネームで呼びあっていたことからも時間をかけて築いた信頼関係の上に成り立つ授業であるように思われました。「特別編成」のクラスには新聞部の子が多かったようですから生徒自身の問題意識も高いのでしょう。通常の授業だと発問に対する生徒の反応を得るまでに時間がかかるものですが、班別発表にいたる幕間の短さからも、回数を重ね、練り上げられたデモ授業であるなと見ました。今どきの日本のシャイな高校生と気弱な教師のなせるわざではありません。
模擬授業の後で学校新聞の2人の記者が質問にきました。好奇心をむき出しにして、迷いなくぼくの瞳を覗き込む女の子の笑顔が印象的でした。16歳の男の子に「卒業したらどうするの」と逆質問すると「日本へ行って勉強したい。お金を稼いで母校に寄付するんだ!」と瞳を輝かせました。それを聞いた在比26年の日本人ガイドさんは、祖国を思い出すような眼差しで「日本の子どもに聞かせてやりたいね」とつぶやきました。高度経済成長期の「青い山脈」を思い出しました。この国の若者は、ややこしい心理小説に汚染されて世間を斜めに見たり、きつすぎる教育を受けて感覚をにぶらせることは少ないようです。
ゴンザレス高校は1クラス70人。全校生徒3,517人に対して教員は170人。教員1人あたりの生徒数は21人になります。日本の公立高校は1クラス40人。学校にもよりますが、教員1人あたりおよそ14人。マニラの教室は過密です。しかし全入に近い日本とちがい、ある意味で選ばれた生徒のはずですから授業はやりやすいかと思われます。(フィリピンに中学校はなく、小学校6年、高校4年です)
デモ授業における価値とは「愛、誠実、誇り、信仰」といった概念のようであり、具体的には、「スペイン時代の苦しみ。マルコスからアキノ大統領に移行したときの政変。民主主義。集会、請願、言論の自由」といった価値が扱われていました。受験で忙しい日本の高校では文字でしか扱われることのないテーマと言ってよいでしょう。国家斉唱で始まった価値教育は、国とは何か、民主主義とは何かといったマクロの問題を背景に、個別的な人権意識を芽生えさせることが目的のように思われましたが、踏み込んだ内容についてはよくわかりません。
授業後の質疑応答で「家族、親戚に海外で働いている人はいるか」との質問が出たのにはハッとしました。入国管理が厳しく、言葉の壁が高い日本では、おのずと仕事内容が限定され、外国人労働者に対して屈折したイメージを抱きがちだからです。しかし70人中15人ほどが手をあげ、台湾、香港、日本等で働いていると明るく応えていました。
フィリピン人の海外労働においては人権侵害による裁判沙汰も伝えられていますが、実のところは英語を活かした看護士、家事労働といった職業に従事している女性が多いのかなと思いました。途方もない資本を投下する政府開発援助(ODA)事業より、個人がせっせと働いたお金を海外から持ち込む方が、庶民の台所にはよい影響を与えるのではないかと想像します。
高校の歴史教科書には、豊臣秀吉の世界戦略は、天下統一後の余剰軍事力を朝鮮半島に向け、最終的には、北京に天皇を置くことであった云々が描かれています。400年以上も昔の話だから、われらのご先祖様の思考経路はご容赦願うことにして......日本とフィリピンの軍事的かかわりは、安土桃山時代に逆上るようです。
『物語フィリピンの歴史』(鈴木静夫著・中公新書)によると、「国内統一の勢いを駆ってフィリピン侵攻を企てた豊臣秀吉もスペイン総督府の脅威であった。秀吉は、1592年5月29日、原田孫七郎にダスマリニャス総督あての書簡を届けさせた。同書簡は、『2カ月以内に大使を送れ。さもなければ大軍を差し向ける』という内容であった」(p34)とあります。
スペイン、日本、アメリカといった国々に翻弄され、内政の矛盾に脅かされてきたフィリピン人にとっての価値は、民族のトラウマとして残るほどの侵略を受けたことがない日本人には想像しにくいものです。その意味でゴンザレス高校の生徒は、民主主義を風のように呼吸してきた戦後の日本人とは違った文法で価値を考えているのだろうなと思いました。
高知では同和教育が、人権同和教育となり、今年から人権教育と名を変えました。部落問題を柱としながら様々な人権について考えなさいというわけですが、与えられた課題には、部落、在日、先住民といったテーマに挟まれてセクハラがあります。「歴史的な差別の問題と個人の人格の問題を一緒にしてよいのか?」と同僚に尋ねましたら、「個別の人権を考えるところから、大きな差別の問題に行き着けということだ」という一見もっともな回答がありました。しかし歴史と個人を同じ次元に置いてしまうと問題の本質が薄められてしまう恐れがあります。
ぼくの勤務高校では、週5日制になって授業確保がむずかしくなったこともあり、人権教育に過剰な時間は割かず、代わりにあらゆる機会を使って人権問題を考えようという動きがあります。両手両足を縛られた教師が、紋切り型の人権授業を行っても生徒はシラけるのが常ですし、心にふれる教育は、教師のちょっとした立ち居振る舞いや授業の合間のさりげない言葉からはじまると思うからです。芝生に腰をおろして人権を論ずる場が生まれれば本物かと思われますが、下手をすると教師の人格を根こそぎもっていかれるかもしれません。
フィリピン教育省におけるネリッサ・L・ロザリア人権教育担当の講演では、「人権を独立した科目にしないで、既存の科目に統合する」といった話も出されました。世界はこんなところでも共振しているように思われて愉快でしたが、ヒューマンライツを人権と置き換えた時点で、人間の権利は、別の文脈で語られるにちがいなく、うっかりすると同床異夢になりかねません。異国は自国をみつめる鑑にすぎず、それぞれの地域で、それぞれの価値を生み出す他ないのでしょう。
※バロン・タガログとは、フィリピンで男性が正装として用いる上着。
より詳しい情報は、フィリピン人権教育スタディツアーの記録のページでご覧になれます。