肌で感じたアジア・太平洋
私は、2000年4月から2002年4月までの2年間、青年海外協力隊の手工芸隊員としてラオスで活動した。
私が青年海外協力隊について興味をもったのは、子どもの頃だ。高校生のとき地元主催の「青少年の主張」に出て、「青年海外協力隊の隊員になりたい」と宣言した。ただ旅行で海外に行くのではなく、そこに暮らす人のなかにどっぷりつかって生活する姿にあこがれていた。
このラオスという国についてどのようなイメージを持つだろう。「あまりイメージがわかない」という声もよく聞く。外国人旅行者をよく見かけるようになったのもここ数年の話だ。あまり外国の影響を受けていないおかげで、今でも素朴で伝統的なくらしが生き続けている。
ラオスの面積は日本の本州くらいの大きさである。ここに人口500万人、大阪府の人口(約800万人)の6割にあたる人々が暮らすのだから、それだけでも、のんびりした雰囲気が伝わるだろう。お金の動きも人の動きも、ゆっくりとしている。
私は、ラオスの南部にあるサワンナケート県工業手工業局で、県の職員と一緒に仕事をした。サワンナケート県は首都に次ぐ経済規模を有しており、中心部には工場もある。ベトナム、タイを結ぶ国道もあり、物や人の流れが盛んである。また、2005年にラオスとタイを結ぶ橋が完成する予定だ。これらにより、村の働き手である若い人が、県の中心部やタイに働きに出るため、村の過疎化が徐々に始まっていた。
ラオスの人々は、家族や親戚のつながりをとても大切にしている。働くために村を出て行っても、家族が恋しくなりまた戻ってくるという話もよく聞く。それだけに村落における現金収入手段も必要なのである。
私の赴任当時、サワンナケート県手工業局が支援を始めたのが養蚕の復興であった。対象としたサイプトーン郡ドーンタムグン村は、メコン川の中洲にある村だ。タイが目と鼻の先という土地柄も手伝って、数件の家族は、タイのエビの養殖場に出稼ぎに行き、若い女性は都市の縫製工場に働くなど、この村でもやはり過疎化が始まっていた。
ドーンタムグン村では、30年ほど前までは、さかんに養蚕が行われていた。しかし、今では、輸入された安い生地が手に入り、農作業の忙しい合間をぬって養蚕をする必要がなくなったため、途絶えてしまった。
その当時の養蚕を知っているおばあさんは、70歳をこえている。伝統技術も今を逃すと途絶えてしまうだろう。そこで県の支援により、養蚕の復興が始まったのだ。
ラオスの絹糸は、「カンボージュ」といわれ、ラオス、カンボジア、タイを中心に生産されている。そして目をみはるほど美しい金色をしている。日本人がこの糸を目にしたとき、「この糸は金色に染めたのですか」とよく尋ねる。日本の蚕も、改良される前は色がついていた。改良に改良を重ねた結果、まっしろい絹糸にたどりついたという歴史がある。ラオスの絹糸は、手が加わっていない分、色も原種のままなのである。
精錬(織物にする前に灰汁で煮て、表面の蛋白質を落とす作業)をすると、金色も薄くなり生成り色に近くなる。このまま布に織ることもあるが、染めたあと浮き織りにして、伝統的な模様をいれていく。
村には電気も通っていないため、「糸紡ぎ」や「糸撚り」といった手間のかかる作業は、すべて手作業である。村人は農閑期の空いた時間に、「ヒ~コ、ヒ~コ」と糸車の音を響かせながら作業をする。そのペースはとてものんびりして村の生活に合っている。なんでも速いペースに慣れている我々日本人にとって、村のペースはゆっくりすぎて、とてもついていけないだろう。このようにラオスの絹糸は、村人の手のぬくもりが伝わってくるような、とても素朴な糸なのである。
しかし、村人はこの村の絹糸の珍しさや素朴さがわからない。村人にとって、この糸はどこにでもある糸にすぎないなのである。
支援を始めるにあたり、この村の糸は世界的にみてとても個性的であること、今、この養蚕を伝える人がいなくては途絶えてしまう時期にきていること、首都にある織物店やお土産物店に「カンボージュ」の市場があることを説明した。私も県職員と一緒に、手工業局の事務所から約70キロ離れたドーンタムグン村まで通い、村人との関係づくりに努めた。
しかし、せっかく手間をかけて絹糸を生産したものの、現金にならなければ働く意欲につながらない。できあがった絹糸を、市場に持って行き評価をしてもらいながら、今後の課題や市場についての情報を集めた。
売り物にするには、たくさんの課題があった。ある絹糸には同じ一束のなかに、撚りが強い部分、弱い部分が混ざっていた。そうなると、織り子さんにとってはとても使いづらく、商品にした場合も質が落ちるため、せっかくの絹糸も商品にならない。これらのことを村人に伝えた。
村人は、県の支援が始まって初めての繭ができたことがとてもうれしく、村人みんなが交代で糸を紡いだため、このように「まだらな」絹糸ができたのだと話していた。なかなか微笑ましい話であった。村人は家族のために絹糸を作ったことはあるけれど、市場に出す絹糸を作ったことがない。そのため、市場に出すために必要な品質について、特に気にしないのである。「売るために必要な品質」について村人に理解してもらわなければならない。また、「絹の品質」には、「よい桑の葉」が必要である。質のよい桑の葉でなくては、食べが悪い。また、蚕の病気にもつながる。そこで、「絹糸の品質向上」と「桑の栽培」について、トレーニングを開催した。
支援している村から50キロ先に、とてもきれいな絹糸を生産する村があった。その村人に講師になってもらい、トレーニングを開催した。ラオス人は、出会えば友人、もてなすことが礼儀である。トレーニングのあとは皆で夕食、そしておきまりの「ランボン(ラオスのダンス)」を踊り、1泊2日の実りあるトレーニングとなった。また、サワンナケート県にある農業技術学校の先生が講師になり、桑の栽培についてのトレーニングも行った。
このように、ラオス人の講師を迎えることは、成功だった。外国人である私が、絹糸の評価について伝えることはとても難しい。「しょせん、日本人のいうこと」と、身近な話に受け入れてもらえないと感じることもたびたびあった。
また、私の活動期間も2年間と決められていた。そのため継続して情報収集を行うためには、地元に住むラオス人が講師になるほうがのちにつながる。そして「私たちにもできる」という村人の意識を刺激した。
養蚕が軌道に乗るまで、5年は必要と言われている。そのうち初めの2年だけしか関わることができなかったことは、とても寂しい。だが、このあと、養蚕が軌道に乗っても、そうでないとしても、あとは、村人と県職員次第である。本当に必要ならば継続するだろうし、いらないのならば終わるだろう。そのきっかけを投げかける位置にいたことは幸運だったと思う。
協力隊として訪れるまで、私にとってもラオスは「目立たない国」の一つであった。しかし、いまでは「ラオス」と聞くたびに、お世話になった人々の顔が目に浮かび、心のなかは興奮でいっぱいになるほどひいきの国になってしまった。
ラオスは、たしかに「開発」という視点からみるとずいぶん遅れているかもしれない。しかし、自然の豊かさ、人間のおおらかさ、生活力、家族のありかたなど、多くの面で学ぶことばかりであった。
どんどん便利な国になっていく日本。そして、自然に近づくことは不便になることとされ、もう、もどることは出来ないと思う。でも、ラオスには、人間も自然の一員として生きていく強さ、心のゆとりが感じられる。そういう点では、日本はラオスにかなわない。自然と共に生きるという意味でラオスは世界でもトップを行く国だと思う。
(ヒューライツ大阪では02年9月18日、難波さんを報告者に迎えて「第5回国際人権わいわいゼミナール」を開催しました。)