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国際人権ひろば No.47(2003年01月発行号)

肌で感じたアジア・太平洋

HITOセンターを通して感じたミャンマー

吉川 由里子 (よしかわ ゆりこ) Network-HITO

ミャンマーとの出会い


 初めてミャンマーへ行ったのは1993年5月である。大阪YMCAの親善訪問ツアーの参加者として、約1週間ヤンゴンに滞在した。
 その時一番印象に残ったのは、子ども達の目の輝きである。彼ら・彼女らが、あふれる笑顔で体を揺さぶりながら歓迎の歌を一生懸命歌い始めた途端、自然に涙が出てきた。そこは空港建設のため強制移住させられたラインターヤーという村で、厳しい生活条件の中、懸命に人々が暮らしていた。物質的・金銭的には彼らは「貧しい」と言わざるを得ないが、それ以上に何か大切なものがここにはあると感じた。他にもパゴダでお祈りをする人の姿、市場での活気あふれる様子、自然豊かな景色を見ていると、初めて訪れる異国であるにもかかわらず、故郷に帰ってきたような懐かしい感じがした。
 大阪生まれの大阪育ちで両親の出身も大阪なので、子どものころ夏休みに友達が「田舎に帰る」というのを聞いてうらやましく思ったことを思い出した。一週間というのはあまりにも短く、ぜひもう一度来ようと決意した。

HITOセンターができたきっかけ


 HITOセンターは97年6月にミャンマーの真ん中に位置するマンダレーという都市に設立された。きっかけはその半年前に実施された大阪YMCAのスタディツアーである。ミャンマーYMCA同盟と大阪YMCA が友好関係にあり、生活支援プロジェクトを行っていた。
 その一つとして、郵政省(当時)のボランティア貯金の援助による、女性の自立を目的とした縫製指導が91年より行われていた。よって、毎年年末年始の約2週間は親睦とその視察を兼ねたスタディツアーが組まれており、そのツアーに私も参加したのである。
 マンダレーはミャンマー第二の都市といえども首都ヤンゴンとの格差は著しく、交通や通信手段にも表れていた。人の移動は自転車が主で、荷物は馬車や牛車が運んでいた。郵便は外国どころかヤンゴンにも届きにくい状況であった。不便なことも多かったが、それゆえに人同士が支え合って生きていた。
 マンダレーYMCAのスタッフをはじめ出会う人々から暖かい歓迎を受け、まるで昔からの知り合いであるかのように意気投合し心が一つになった。まさに「出会いの場」であった。この関係をその場限りで終わらせずに、出発点として後々も交流を続けていきたいという気持ちが自然に双方に生まれた。そんな折、マンダレーの象徴ともいえる旧王宮の角にいい物件があり、センター設立の構想が一挙に具体化された。そしてこのツアーの参加者がキーパーソンとなりNetwork-HITOというNGOグループが生まれ、現地の人々の熱意の下にHITOセンターが生まれたのである。
 「HITOセンター」という名前の由来はHuman InTeraction Operationの略であり、人間交流の拠点を意味する。と同時に「人」はお互いが支え合うことをイメージさせるので、現地では「人」をロゴマークに使ったり、看板やTシャツに「人センター」とあえて書くこともある。初めは少人数から始まったが、今では日本語の学生が約150名、縫製の学生が約50名在籍するまでになった。
 なぜ日本語と縫製なのかといえば、それはただ単に設立メンバーの中に日本語と縫製の専門家が居合わせたからである。したがって必要性が認められ、自信と責任をもって運営できれば、もちろん他の活動やプログラムも考えられる。

私とHITOセンターとの関わり


 私とHITOセンターとの関わりは5年余りであるが、現地に滞在していたのは合計2年半である。設立時に3ヵ月お手伝いとして、2000年4月から1年間は日本語教師として、01年4月以降は現地スタッフ側として、あいだに一時帰国をはさんで、02年7月まで勤務していた。

交流の意義


 初めてミャンマーを訪れたとき、たった1週間で何ができるのかと思った。活動の現場へ行って、メモを取ったりバチバチと写真を撮って自己満足に浸って帰るだけで、現地の人にとってはありがた迷惑ではないかと心配だった。しかし、返ってきた答えは「自分達の存在や境遇を外国の人々が知ってくれていることが心の支えになる」というものだった。
 この言葉は私の活動における信条となっている。実際に様々な問題に直面し、解決できない無力さに憤りを感じることばかりだが、その事柄を共有するだけでも意味があるのだと悟った。

HITOセンターの役割


 縫製や日本語を学びに来る学生としては、日本人の先生から技術や知識が学べたり、"Made in Japan"の物が手に入るのが喜びである。縫製に関しては、店が出せるようになった人もいるし、家族や近所の人の服を縫ってあげられるようになったという話も耳にする。
 また体の不自由な人も受けられるように特別授業をしたり、学費が払えない優秀な学生に対しては奨学金を出している。これは日本語クラスも同様である。技術や材料を手に入れることも大きなメリットではあるが、女性が同じ目的を持って楽しく会話をしながら集まるという経験をするのは初めてとのこと。日本人による日本の技術を学ぶことを目的としながら、現地の人同士が出会い、集い、憩う場になっている。
 日本語に関しては、ネイティブに学ぶ利点が大きい。マンダレーには日本の企業も無いため仕事に結びつけることは難しいが、それでもホテルで働いたり、ガイドや通訳として活躍している人もいる。パスポート取得の困難や、経済格差により日本への留学もできない状態だが、スピーチコンテストで賞を取って日本への短期研修に参加できた人もいる。また、いろいろな行事の際に、歌を歌ったりダンスをしたりする。そのこと自体も新鮮だし、若者達の出会いの場にもなっている。

様々な不自由さ


 言論の自由、集会の自由が事実上認められておらず、行動が制限されている。また、女性の場合、女性だけで喫茶店に入るのは稀であり、公衆の場でビールを飲むことも好奇の目で見られる。結婚の約束をしていない男女が二人きりでデートをしようものならすぐ噂になる。旅行など遠出をするときはIDカードのチェックを受ける箇所があり、移動も制限されている。
 地域によっては外国人が立ち入れないところもあるなど多少の違いはあるが、外国人、現地の人ともに、言動が制限される。特にマンダレーは定住している日本人がHITOセンターの住人だけなので、それだけでも珍しがられる。どこへ行っても見られていて、HITOセンターを背負っている立場としては、気を遣うことも多かった。

努力の成果


 今やっと地域に認知してもらえるようになったのも、現地スタッフの努力、現地で手探りしながら奮闘してきた先生方の努力、日本から支援している会員及び協力者の努力の賜物である。活動が認められて、在ミャンマー日本大使館から足踏みミシンや図書などの輸送、改築等の支援を受け、さらに充実したセンターになった。
 日本映画祭や日本語スピーチコンテスト、作文コンテストなどマンダレーで大使館が主催する行事についてはHITOセンターが拠点になっている。縫製においては国際協力事業団(JICA)の要請を受けて出張指導も行っている。
 HITOセンターは、別名「JAPANセンター」として、マンダレーではたいていの人が知るようになった。日本人旅行者も立ち寄ることが多く、学生との思いがけない交流に満足して次の地へと向かう。

私の願い


 人々は、新聞・テレビよりも口コミの情報によって生活をしている。逆境に耐えながらも、ユーモアのセンスが豊かで、力強く生きている。困難に立ち向かう連帯感がある。その姿に不憫さを感じながらも、ある種の羨ましさ、暖かさを感じる。
 貧富の差による違いはあるが、先進国に対する憧れが強く、ファッションや持ち物にも表れつつある。それはアジアのどの国でも見られ、避けては通れない道なのかもしれないが、豊かな自然や、男女とも筒状の布を腰に巻きつけてはく「ロンジー」など、独自の文化やライフスタイルのいい面は失わずに残しておいてほしいと願う。

(HITOセンターのホームページ: http://www.osk.3web.ne.jp/~okuno164/hitoctr.htm)