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国際人権ひろば No.48(2003年03月発行号)

特集・アジア各地の平和構築に向けた取り組み Part3

東ティモール受容真実和解委員会 -受容と和解をめざして真実を糾明する

松野 明久 (まつの あきひさ) 大阪外国語大学教員

■ 戦後処理


 東ティモールの受容真実和解委員会※1は、戦後処理という文脈で理解される必要がある。
 東ティモールは1975年、非植民地化過程でインドネシア軍に侵略され、その後24年間占領された。その間20万人が死亡したとされながら、独立運動は続き、99年8月、国連が実施した住民投票で約8割が独立を選択したため、インドネシアの撤退と東ティモールの独立が決まった。
 しかし、これを不満とするインドネシア軍とそれに支援された東ティモール人民兵が焦土作戦を展開し、破壊の限りをつくした。多国籍軍の投入によって治安は回復したが、荒廃した国土は東ティモールの独立に大きな負担となって残った。
 インドネシアは99年10月に撤退し、2年半の国連暫定行政(UNTAET)による統治をへて、2002年5月20日、東ティモールは独立を達成した。これとともに、東ティモール問題は一応の決着をみたことになる。
 国連暫定行政時代、戦後処理としていくつかの施策があった。
 ひとつは東ティモールにおける重大犯罪裁判だ。これは裁判所内に設置された3人の判事から構成される重大犯罪判事団(Serious Crime Panel)が担当する。この裁判の管轄は99年1月から10月までで、住民投票実施が発表されたあたりからインドネシアが撤退するまでの間におきた政治的な背景をもった殺害、虐殺、拷問、レイプなどの罪を裁く。現在までに30人以上が有罪判決を受け、なお数十人が訴追をまっている。
 もうひとつは、インドネシアが設置した東ティモール特別人権法廷だ。これは、大統領令で02年に設置され、管轄が99年の三つの事件に狭められた裁判だ。これまでに5人が有罪となったが、そのうちインドネシア軍兵士は大佐が1人だけだった。予想以上にひどい結果に、もはや誰もこれに期待していないというのが実態だ。
 住民投票後、東ティモールで調査を行った国連人権委員会東ティモール調査委員会は、問題が国際紛争であったことを指摘し、旧ユーゴスラビアやルワンダのように、国際法廷の設置を勧告した。インドネシアの国家人権委員会東ティモール人権調査委員会も、国際法廷設置を勧告した。
 しかし、インドネシアをこれ以上追及したくない大国の思惑もあって、人権委員会は、国際基準を満たすことを条件に、インドネシアに国内裁判のチャンスを与えたのだった。
 これには、世界中の人権団体、インドネシア国内の人権団体がこぞって反対を表明した。国軍が勢力を盛り返したメガワティ政権下で、軍人を裁くことは不可能に近かった。そしてそれが今、証明されつつある。

■ 「受容」ということ


 国連暫定行政がとったもうひとつの政策は、「受容真実和解委員会」(以下、委員会)の設置だった。この「受容」(Reception)ということばについて一言。
 「受容」には、西ティモールに逃れて「難民」となり、報復や裁判を恐れて帰還できない元民兵たちを受け入れるという意味が込められている。
 「難民」とカッコ付きで書いたのは、西ティモールにいる東ティモール人難民には二種類あるからだ。ひとつは、統合派元民兵やインドネシア軍の東ティモール人兵士などで、彼らは東ティモールで焦土作戦を展開した。
 もうひとつは、こうした民兵たちに追い出された、ないしは連行された人びとで、25万人が「難民」にさせられた。彼らは、わかりやすく言えば、民兵たちの人質だ。
 さて、現時点では、西ティモールに残る「難民」は3万人になっている。その大半が、元民兵、インドネシア軍兵士、公務員など統合派とその家族だと考えられている。そのうちどれくらいが自主的にとどまっているのか、判断は難しい。統合派には親分・子分関係があり、子分は帰りたくても親分の言うことを聞くしかないからだ。委員会はこうした状況で、難民帰還を促進することをひとつの目的として設立された。

■ 委員会の設立


 委員会は02年1月に正式に発足した。委員会は独立の機関であり、その予算も東ティモール政府からではなく、各国の援助によっている。日本政府は100万ドルを支出する約束をしており、すでに53万ドルが委員会の事務所となる建物の修復などに支出された(無償資金協力)。5月に独立した後は、大統領府と連絡をもつ委員会との位置づけがなされた。
 委員会は2年間存続し、必要な場合は半年延長される。現時点では、04年10月に仕事を終了することになっている。これはかなりきついスケジュールだ。
 委員会は、7名のナショナル・コミッショナー(中央委員)で構成され、地方には30名の地方委員が採用されている。7名の中央委員は、職業はさまざまだが、いずれも人権分野での活躍が知られた人たちで、女性は2人だ。委員長のアニセト・グテレスさんは、東ティモールの人権団体「ヤヤサン・ハク」の代表者をつとめた弁護士だ。また、7人の中には元統合派組織のメンバーも含まれている。さらに、オーストラリア人で長年東ティモールの人権問題を扱ってきた専門家として知られるパット・ウォルシュさんがスーパーバイザーとしてついている。
 委員の一人ジャシント・アルベスさんは、昨年5月、「東ティモールに自由を!全国協議会」の招きで来日し、各地で講演会を行った。アルベスさんは、91年11月、インドネシア軍が若者たちの独立要求デモに発砲して多数の死者を出した「サンタクルス虐殺事件」後に逮捕され、独立要求デモを組織したことが反国家転覆法違反、つまり国家反逆罪に当たるとして、10年の刑を言い渡された元政治囚だ。
 彼は98年に釈放され、元政治囚協会というNGOをつくった。インドネシア軍や統合派には相当いじめられたに違いないのだが、「和解は必要」ときっぱりと言った姿が印象的で、今では委員会の理念を普及するスポークスパーソンになっている。

■ 委員会の仕事


 委員会の仕事は大きく二つある。
 ひとつは、99年の民兵が行ったさまざまな行為(犯罪)について、重大犯罪にあたらない場合、一定のプロセスを経て和解を促進するというものだ。南アフリカの真実和解委員会は、告白すれば罪を免れるというルールになっていたため、被害者側にとって、真実はわかったものの正義が行われないことが大きな不満となった。この反省から、東ティモールの委員会では、殺人・拷問・レイプなど重大犯罪は、やはり裁判で裁くことを原則とした。
 しかし実際には、殺人でなくても、家の破壊などは貧しい家族にとっては一生を左右するほどの犯罪であり、これが重大犯罪に当たらないという解釈がどれくらい東ティモール人に受け入れられるかという問題がある。
 もうひとつの仕事は、74年(非植民地化が始まった年)から99年10月(インドネシアの撤退)までにおきた人権侵害について、その事実を掘り起こして記録することだ。すべての事件をカバーすることが人員、期間の制限上できないため、いくつか重要な意味合いをもつ事件に絞って調査される。
 これは、過去24年間、いかなる人権侵害が行われたかの概略を記述することになるが、最終報告が出されるまで内容は公開されない。最終報告が出た後、検察は事件の内容によっては起訴にもちこむことも許されている。
 問題は、東ティモールでの人権侵害の実行者の多くはインドネシア軍兵士、またはその命令で動いた東ティモール人だと考えられるから、インドネシア人の責任が問えない体制でどこまで犯罪が法的に追及できるかという問題が残る。
 また、この調査は、独立派、具体的にはフレテリン(東ティモール独立革命戦線)が行った殺害なども射程に入っている。フレテリンがインドネシア軍のスパイと思われた人物を殺害したケースはいくつもあるが、とにかく通常の戦闘ではないので、非戦闘員や捕虜の扱いを定めたジュネーブ諸条約などの国際人道法を基準に考えたとしても、どの程度まで敵の戦闘行為の範疇に入るのか、難しい問題となるだろう。

※1.英語名称はCommission for Reception, Truth and Reconciliation in East Timor, http://www.easttimor-reconciliation.org/

〈参考文献〉筆者の近著:『東ティモール独立史』(早稲田大学出版部・2002年)