MENU

ヒューライツ大阪は
国際人権情報の
交流ハブをめざします

  1. TOP
  2. 資料館
  3. 国際人権ひろば
  4. 国際人権ひろば No.48(2003年03月発行号)
  5. スリランカの和平と復興支援の課題

国際人権ひろば サイト内検索

 

Powered by Google


国際人権ひろば Archives


国際人権ひろば No.48(2003年03月発行号)

特集・アジア各地の平和構築に向けた取り組み Part1

スリランカの和平と復興支援の課題

中村 尚司 (なかむら ひさし) 龍谷大学教員・ヒューライツ大阪企画運営委員

■ 停戦協定の締結


 2003年2月22日、スリランカ政府と「タミル・イーラム解放の虎(LTTE)」との停戦1周年を記念する集会が、コロンボの独立記念広場で行われた。遅々たる和平交渉の進展ぶりにイライラしているものの、無差別的な自爆攻撃の不安から解放され、街角から警察と軍隊の検問所がなくなった。そのぶん、人びとの暮らしは明るくなった。「20年ぶりに戦争による殺戮がなくなっただけでも、長生きしてよかった」と語ってくれた老人もいる。
 同じ日の朝9時から2時間、少数民族であるタミル人が多い北部のジャフナ半島では、数万人のスリランカ陸海空軍が撤退せず、主要な地域や施設を占領している事態に抗議するハルタル(商店や役所の職場放棄)が決行された。地雷の除去作業も進まず、帰還難民の再定住の妨げになっている。物価が高騰するばかりで、停戦の成果がほとんどないと苦情を言う人たちに、「それではもういちど戦闘再開すべきでしょうか」と尋ねてみた。「もう戦争はいらない」と口をそろえて答える。宿舎を提供してもらっていた国連開発計画事務所の隣家では、「もう戦闘再開にならないと考え、20年ぶりに住宅の内装を新しくしました」と家の中を案内してくれた。特に戦場に行かなくてもすむ青年層の喜びは大きい。
 その日の午後、停戦後に再開した民間航空「ライオン・エヤー」便で北端のパラリ空港からコロンボ南部のラトマラーナ空港に飛んだ。コロンボからさらに南部に向かうと、LTTEの武装解除を前提としない現政権による和平交渉の進め方を批判する人が少なくない。
 和平斡旋を引き受けたノルウェー政府は、LTTEに肩入れしすぎる。日本をはじめとする諸外国からの復興支援資金も少数民族居住地域にのみ投入され、南部のシンハラ人の経済生活は停戦によって相対的に悪くなる。そういう抗議の運動も組織されている。とはいえ、戦闘再開を主張する声は聞こえてこない。この民族抗争の社会経済的な背景を紹介しておこう。

■ 停戦協定までの背景


 英国の植民地時代のスリランカでは、英語社会と現地語社会とが整然と区分され、両者の接点が少なかった。それはシンハラ語の公用語化(1956年)によって大きく変った。しかし、公用語でなくなったものの21世紀初頭の今日でも英語の優勢は続いている。大学を卒業しても英語のできない学生は就職できず、大半が失業者になる。英語の習熟度に対応して社会的な階層を上昇できる以上、外国語の支配力は衰えない。
 英語を話す指揮官を除くと、戦場に行く軍人もまたたいてい英語を話さない農村出身者である。エリート階層は、子弟を海外に留学させたりして、なるべく軍隊には行かせないようにしている。農村地帯へ行くと、軍人や警察官の戦死者を出した家庭が、その遺族補償金で立派な家を建てている。
 1970年4月5日の早朝を期した人民解放戦線(JVP)の武装蜂起は、エリート支配に対抗する暴力の時代の出発点であった。一両日中に反乱軍の組織的な暴力は、シンハラ人居住地域の半分以上を支配下に置き、世界を震撼させた。当時の冷戦構造にもかかわらず、北朝鮮を除く西側と東側の両陣営とインドやユーゴスラヴィアなどの非同盟諸国も軍事援助を行い、数ヶ月のうちに農村青年による武装反乱の主力部隊は鎮圧された。
 この年以来、スリランカ政府の軍備拡充が進み、兵力は飛躍的に増強された。マルクス主義に基礎を置くシンハラ民族主義者の武装反乱は、1989年に最終的に鎮圧された。多くの指導者たちは戦場や刑場で命を失ったが、その後を継ごうとするシンハラ農村青年は絶えない。21世紀に入ってもJVPは、シンハラ人居住地域の主要キャンパスにおける最大の政治勢力である。国会議員数はわずか10議席であるが、和平の将来に強い影響力を持つ。
同様の傾向は、1983年8月に始まるジャフナ半島におけるタミル青年の武装反乱にも共通する。英語教育を受けないタミル人の農村青年の間では、エリート政治家に対する反感が根強い。タミル人政治家は英語教育を受けた弁護士が多く、多数派のシンハラ人政治家とコロンボの議会において言論戦を繰り広げてきた。
 しかし、公用語、教育制度、地方自治などをめぐるタミル青年の不満は、議会主義的な限界を越えて、スリランカ政府に対する軍事的な対決に展開していった。それも初期のゲリラ戦から、しだいに正規軍の対決へと様相を変えた。
 軍事費支出の正確な内容は、政府軍と反政府軍の双方とも公表していない。年間およそ10億米ドル以上と推測され、スリランカにおける国内総生産の10パーセントを越える規模とみられる。海外の援助機関に対する配慮から、通常予算では国防費が目立たないように、スリランカ政府はいろいろ工夫もしている。それでも政府の経常支出の25%、約4分の1という位置を占めている。
 他方、1983年以降、反政府軍支配地における経済活動や海外在住タミル人からの軍事費送金については把握が困難であり、国民所得勘定なども不正確にならざるを得ない。
  1980年代の終わりから90年代にかけて、スリランカに対してインド平和維持軍(IPKF)が12万人送り込まれた経緯がある。国連の枠組みの外で問題を解決するという意思がインドに非常に強く、それがラジヴ・ガンディ首相の暗殺という結果にもなった。
 インドのスリランカ政策が、ある意味で解決の要である。インド政府から見ると、インド洋の安全はインド国家の安全でもあり、無関心ではいられない。南インドのタミル・ナードゥ州には、スリランカの多数民族シンハラ人の数倍に達するタミル人が住み、LTTEを支援する組織も多い。
 長期化した内戦の激化は、外国援助のあり方にも再考を促す要因である。最大の援助国として道路やダムの建設、港湾や空港の整備、医療機関や教育施設などインフラストラクチュア(基盤整備)に力を入れてきた日本の政府開発援助(ODA)も、タミル人側からはシンハラ地区に偏っているとの不満が強かった。6万5千名の戦死者や100万人以上も島の内外に難民を出している武装抗争に触れることなく、開発援助のみを拡大するのは誰の目から見ても異常であろう。

■ 停戦の成立と復興支援の開始


 2001年12月5日の総選挙の結果、議会の多数派を占めた統一国民戦線(UNF)のラニル・ヴィクラマ政権が誕生した。新首相は、民族和解による和平の達成を第一の政策課題にすると言明して、停戦交渉を進めた。翌2002年2月22日に無期限の停戦が実現し、スリランカ政府の首相府に和平調整事務局(Secretariat for Coordinating the Peace Process;通称SCOPP)が設置された。初代事務局長のグナティラカ在中国大使から筆者の来島と助言を求める公信が届いた。
 私は、1960年代から毎年のようにスリランカに通い続けている。閣僚にも友人が少なくない。スリランカの社会経済問題に詳しい日本人であることが、評価されたのであろう。要請どおり3月30日にコロンボへ行き、日本に住むものとしてどのような形で和平プロセスに協力できるか話し合った。
 設立されたばかりのSCOPPでは、現職の大使が交代で仕事を分担していた。バンコクから一時帰国したばかりのパリハッカール在タイ大使と和平に見通しについて議論を重ねた。
 その後、私は日本の国際協力銀行(JBIC)による「紛争と開発」に関する調査を受託し、続いて日本商工会議所によるスリランカ経済に関するシンポジウム参加、国際交流基金による客員教授としての派遣などの委嘱を受けて、スリランカを訪問することが多くなった。外務省経済協力局開発協力課のスリランカ援助に関するタスクフォースや国際協力事業団のスリランカ復興支援事業も手伝うことにした。それらの機会に、できるだけ対立する当事者の話を聴くように努めてきた。また2002年12月のヴィクラマシンハ首相の訪日に際して、京都で行われたシンポジウムにはパネリストとして参加した。

■ 日本による復興支援の課題


 このような経験から、日本の諸機関による復興支援のあり方について、私見を記すことにしよう。和平会議が始まったばかりの現状では、日本政府の方針は1000万円以下の小規模な草の根無償による支援が中心で、「恒久的な平和が達成された暁には、戦後復興を支援する」と表明されている。しかしながら、現実問題として和平会議の進捗状況を考慮すると「恒久的な平和の達成」には、場合によって数年に及ぶ長い歳月が必要と見られる。
 むしろ最大援助国として「恒久的な平和の達成」を促進するためにも、可能な分野から支援を始めるべきであろう。その場合、有償資金協力、無償資金協力、JICAの技術協力、NGOなどの他機関との連携のあり方や安全への配慮、民間ベースのビジネスに対する支援も同時的に取り上げる必要がある。
 スリランカ政府とLTTEの双方に、戦後復興事業実施の経験が乏しい上に、多くの死傷者を出す交戦を続けた当事者に実施機関として協力体制を作るように求めることは容易ではない。国際連合開発計画や最大援助国である日本が中心になって、世界銀行のような国際機関、先進国政府の援助機関、国際かつ国内のNGOなどとともに、実施体制のあり方を協議すべきであろう。
 他のドナーの援助動向を調査しながら、想定されうる復興支援事業を、対人地雷の除去、戦闘員の武装解除と社会復帰のような短期計画、飲料水や電力供給、食糧生産、住宅建設等の中期計画および道路、鉄道、港湾などの長期計画に分類し、そのおよその優先順位を考える必要がある。その際、単に支援の必要性からの優先順位のみならず、融資リスク・実現可能性の観点から、具体的に検討すべきであろう。その視点から復興支援が必要とされる分野を以下整理しておく。
  1. 内戦の結果生じた人間の安全保障問題
  2. 内戦により破壊された公教育
  3. 内戦により破壊された医療機関
  4. 制度上に欠陥がある行政機関や司法など
  5. 対人地雷と不発弾の除去
  6. 破壊されたインフラストラクチャーと損傷した住宅
  7. 難民の帰還:難民の権利と再定住支援
  8. 販売市場や金融機関との関係:倉庫や輸送手段、融資制度の復旧
  9. 環境 (破壊された森林、海岸線、貯水池等)
  10. 長期的な敵対関係から民族間協力への方策