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国際人権ひろば No.49(2003年05月発行号)
国際化と人権
市民による放送メディアの可能性
21世紀の幕開けは、市民の作る放送が大きく踏み出す時代への予感に満ちたものだった。
2001年、フランスでは、これまで海賊放送として当局の弾圧を受けていた自由テレビ(テレ・リーブル)が、はじめて放送の認可を受けてパリで地上波の放送を始め、韓国でも韓国放送公社(KBS)で「開かれたチャンネル」と題する市民制作の映像の放送が始まった。
フランスと韓国の例は、突出したものではあるが、偶然ではなく、市民が直接テレビ制作に乗り出すという世界的な動向に結びついたものだ。専門家集団が制作していたテレビ番組は、市民制作という新しい段階を迎えようとしている。
テレビというメディアが創出されて以来、さまざまな批判があった。文化水準の低下、子どもたちへの悪影響、政治権力への迎合などである。しかし、テレビはそんな批判をものともせず、巨大化していった。映像という感覚に直接訴える強い波及力によって、テレビは娯楽のチャンピオンになるとともに、報道の世界をもリードし、現実政治にも深く関与するメディアになった。これに対していくつかのメディア批判運動が展開されるとともに、テレビの受け手から、テレビの作り手へと、自らを変えようとする市民の動きが現れた。
パブリック・アクセスの広がり
カナダでは、60年代末に「変化への挑戦」というプログラムが実施され、コミュニティの民主化の道具として、カメラを使った映像教育が行われた。アメリカでは、60年代の公民権運動の中から、人種差別放送への糾弾と共に、市民制作の放送チャンネル、パブリック・アクセス・チャンネルを要求する声が強くなった。
71年ボストンの公共放送局で「キャッチ44」という30分の市民制作番組が放送され、これがアメリカでのパブリック・アクセスの嚆矢とされている。72年、アメリカの放送行政をつかさどるFCC(連邦通信委員会)は、拡がりつつあったケーブルテレビに対して、一定の規模の都市では、パブリック・アクセス・チャンネルを確保することを義務づけた。ケーブルテレビが、空中なり、地下なりにケーブルを敷くことは、市民の共有財産を使うことだから、市民のためのチャンネルを設けるべきだという理屈だ。ケーブルテレビ会社は地方自治体とフランチャイズ契約を結ぶ際に、パブリック・アクセスのチャンネルを確保し、収入の5%の範囲で、その費用をも分担することになった。この制度はのちに、言論の自由を束縛するという批判から、義務ではなくなったが、今でもほとんどの都市で市民のチャンネルは確保されている。
フランスで合法化された自由テレビ
ヨーロッパでは、イタリアやフランスで若者たちによる自由ラジオ運動がおきた。かれらは反原発運動などと連動しながら、海賊放送を続け、70年代にはイタリアでは当局の許可を得た。フランスも81年、社会党のミッテランが大統領になることで自由ラジオが合法化された。
しかしラジオと違って、自由テレビの道は険しかった。その圧倒的な影響力を知る政府は、あくまでテレビをコントロールしたかったのだ。しかし、フランスの自由テレビ運動は文化省の前にテレビ受像機を積み上げるなどのキャンペーンを繰り返し、前述したように、01年に小規模ながら、6つの市民テレビ局が1日3時間ずつ、ひとつのUHFチャンネルを共有することで、市民テレビがスタートしたのである。
自由テレビのひとつ、テレ・ボカル(ボカルは金魚鉢の意)は、放送だけでは顔が見えないとして、カフェで直接、映像を上映するカフェ・テレビも行っている。短い映像作品を集めて1時間程度に編集したものを月ごとに変えて上映するのだ。「今月のデモ」が定番で、移民のデモや反戦デモなどをインタビューを交えて紹介している。僕も去年、一昨年とカフェ・テレビを訪れてみたが、若い人が陽気に反応していたのが印象的だった。
多言語放送のオランダ移民テレビ
オランダでは、1923年に初めてラジオ放送が始まって以来、市民団体が放送を制作してきたという歴史がある。首都アムステルダムでは、公共放送のテレビが3つのチャンネルを持ち、うち2つが市民に開放されている。その公共放送で定期的に番組を作っている「移民テレビ」を、一昨年訪れた。この放送団体は84年に作られ、「人種主義や差別を防ぎ、オランダの社会が移民と良好な関係を結ぶのに貢献する」ことを目標のひとつに掲げている。
移民テレビが主な対象にしているのは、トルコ人コミュニティやオランダの植民地だった南米のスリナムの出身者などである。かれらのコミュニティではおよそ7割の人が移民テレビを見ているという。放送はトルコ語など、各国語で行われるが、オランダ語の字幕がつけられている。移民と従来のオランダ人の間のコミュニケーションの場を作るというのも、移民テレビの目的だ。
マイノリティのための放送という点では、ドイツのフライブルグに自由放送局の老舗、ラジオ・ドライエックラント(ラジオ三角地帯)がある。創立は77年で、工場を占拠して、11年間海賊放送を続けた後、合法化された。今では12人の有給スタッフと200人のボランティアを抱え、15の言語で放送している。アラビア語やクルド語のほか、朝鮮語もある。財源は州のメディア庁と賛同者からの会費(2千人)、それにEU本部から少数者保護の事業として資金が支払われている。ここはラジオだが、ドイツではテレビ局でも多くの州でオープン・チャンネルがあり、名前と連絡先を表示したうえで、誰でも自分の映像作品を放送することができる。
パブリック・アクセスが義務づけされた韓国
韓国の放送の変化はドラスティックである。00年に放送法が変わり、放送局に市民が制作した番組を放送する義務を負わせたのだ。韓国放送公社(KBS)は「視聴者が直接制作した番組を編成しなければならない」(放送法69条)とされ、有線放送と衛星放送も、「視聴者が自ら制作した番組の放送を要請した場合には、特別な理由がない限り、これを放送しなければならない」(70条)と定められた。これに基づき、KBSでは01年5月から土曜日の午後に「開かれたチャンネル」というタイトルの30分枠で、市民の作った番組を放送している。内容は1回目が、韓国女性団体連合が制作した「戸主制廃止-平等な家族への道」、2回目が新聞の改革をアピールしたもの、3回目が外国人労働者問題、4回目が日本軍の性奴隷など、いずれ社会性のあるテーマを選んでいる。そして衛星放送では02年から、「市民放送」という名前で、一つのチャンネルがまるまる市民のために使われるようになった。
市民が主体となる放送への道
こうした世界的な市民の放送参加への動きの背景には、視聴率競争に走るか、多数派におもねるかという肥大化した既製テレビ局への反発と、デジタル技術の発達による機器の小型化、簡易化がある。放送局の専門家とアマチュアの敷居はもはや高くなく、今は誰でも映像作品を作ることができる時代なのである。その映像を放送する制度、金、サポーターなどの仕組みが、日本ではあまりにも貧弱なことが問題なのだ。
日本でも95年から96年にかけて大阪のFM CO・CO・LO(15言語)、FMわぃわぃ(8言語)などの多言語FM放送局が生れた。FMわぃわぃは阪神淡路大震災で大きな被害があった神戸、長田区の韓国・朝鮮人やベトナム人とボランティアが中心になって作ったものだ。今春、初めてのNPOの放送局、ラジオカフェが京都で誕生したのも朗報だ。またケーブルテレビでは、鳥取県の米子にある中海テレビが92年からパブリック・アクセス・チャンネルと銘打って、市民の制作したビデオを放送している。地上波でも、住民ディレクターがミニ・デジタル・カメラで制作した番組を熊本朝日放送が放送するなど、市民が主体となった放送への歩みが見られる。
電波を使ったものではないが、大阪ではフランスのカフェ・テレビを参考にして、カフェ放送・てれれが今年1月から始まった。市民が作った映像を10本程度まとめて喫茶店などで上映するものだ。上映するカフェは10軒ほどで、まだ少ないが、神戸の日系ブラジル人高校生が作った「ブラジル人として生きる」など、ユニークな作品が多い。その中のいくつかの作品はインターネットを通して見ることができる。
誰もが映像発信できる時代、市民がテレビの主体になる時代の扉が、日本でも少しずつ開き始めている。