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国際人権ひろば No.51(2003年09月発行号)

国際化と人権

グローバル化とフィリピンの地場産業

佐竹 眞明 (さたけ まさあき) 四国学院大学教授

バタンガスの魚醤産地で


 「魚が少なくなっちゃってさ。塩辛や魚醤油をつくるのも大変さ」。フィリピンのバタンガス州バラヤン町で、塩辛と魚醤油(以下、魚醤)を造ってきたアゴスト・デ・ロス・レイエスさんは嘆いた。2001年8月のことだ。生産者が約25軒集まる町は魚醤の産地。もともとバラヤン湾で豊富にとれた魚に、塩田の塩を混ぜて造られた。壺に漬け込み、半年発酵させる。分離してくる液体は魚醤油(パティス)となり、残った身のドロドロ部分は塩辛(バゴオン)となる。加工場が並ぶ町は塩辛の匂いが漂うほどだ。
 レイエスさんは、祖父が20世紀初頭、塩辛づくりを始めたという老舗。だが、98年、67歳の時、高齢のため魚醤造りをやめた。今は銀行に勤める息子の夫婦と同居し、おかみさんと一緒に2人の孫を世話する毎日だ。

日本のODAと資本のグローバル化


 バラヤン町には製糖工場と製鉄工場がある。そして、隣町カラカには石炭火力発電所がある。どれも廃液、温排水をバラヤン湾に流し、海が汚れるとレイエスさんはいう。このうち、カラカ発電所は日本の政府開発援助(ODA)がらみだ。1号炉は日本輸出入銀行(99年、日本国際協力銀行(JBIC)に統合)、2号炉は海外経済協力基金(99年、同じくJBICに統合)が融資した。84年建設の1号炉が環境を汚染し、住民が抗議、2号炉の建設は一時中断された。だが、93年、フィデル・ラモス大統領が訪日の際、要請して、建設が再開。私も92年、カラカの漁村を訪れたが、野積みされた粉の石炭が強い潮風にあおられ、息がむせんだ。
 ここから供給される電力はカビテ、ラグナ、バタンガス、リサール、ケソン5州の頭文字をとったカラバルソン地区の「総合開発」を支えてきた。80年代後半、日本の国際協力事業団(JICA)がマスタープランを作成し、様々なプロジェクトに日本のODAが投入された。日本の各商社が造成した工場団地にも、日系企業が多数進出した。そうした資本のグローバル化を発電所が支えた。その後、見返りとして、カラカ町には中央政府から交付金が渡り、道路も舗装された。しかし、漁業環境は悪化し、バラヤンの魚醤産業も影響を受けた。
 レイエスさんは、84年8軒の生産者をまとめて、塩辛生産者連盟をつくった。州内や周辺の州だけでなく、販路を広げ、将来、輸出向けに大量生産できるように、結束しようと考えたからだ。
 「資金をプールして、お互いに貸し付けしたりしたけれど、輸出まで手が回らなかった。そして、今は魚が足りなくなった。一昔前、バラヤン湾はきれいで、魚もいっぱい獲れたのに」とレイエスさんはぼやく。町の市場に寄って見ても、以前より、塩辛を売る店が少し減ったようだった。レイエスさんが指摘した事情があって、生産者の数も減ってしまったのだろうか。

人のグローバル化


 レイエスさんが魚醤造りをやめたのは、別の理由もある。作業を手伝っていた甥のアラン君が台湾に出稼ぎに出たのだ。魚を塩漬けしたり、重い壺を動かすのは一人では難しい。アラン君はドアノブの製造工場で働いているという。別の甥っ子も韓国の後、台湾で出稼ぎ中。また、日本で10年働き、帰ってきた男性が近所に家を建てたという。その後、州内で、農具を造る鍛冶屋が集まるバウアン町も訪れたが、やはり、中東に建設労働者として出かける親方や職人が増えていると聞いた。
 フィリピンでは、都市のスラムや農村で、大きな新築の家をみかけると、海外出稼ぎの賜物といった例が多い。中東で建設労働者、香港で家事労働者、日本で「エンターテイナー」をして、立派な家を建てる。人口8,200万に対し、800万人が海外居住、出稼ぎ中であり、国民の4割が海外の家族や親戚からの送金に依存する。国境を越えて、人が移動するグローバル化、その波が魚醤産地バラヤンや鍛冶産地バウアンにも押し寄せている。

靴産業と貿易自由化


 マニラ首都圏のマリキナ市は国内最大の靴産地。国産の6割を生産する。零細な工房が約1,000軒以上連なり、革靴、運動靴、サンダルをはじめ、あらゆる種類の履物を造ってきた。
しかし、89年、アジア太平洋経済協力(APEC)、92年、アセアン自由貿易地域(AFTA)、さらに、95年、世界貿易機関(WTO)が発足。こうして、世界的な自由貿易体制のもと、関税も引き下げられていった。そして、マリキナの靴産業は衰退の道をたどることになった。まず、安価な中国製品の大量流入。機械化も遅れ、原料のナマ皮も不足。外国の業者が国内のバイヤーを通じて、皮を買っているからだ。「マリキナ・ブランド」の衰退は技術・デザイン指導を含め、十分な産業育成策を伴わない貿易自由化の危険性を示している。

自由化論者アロヨ大統領


 グロリア・マカパガル・アロヨ大統領(01年1月就任)は自由化論者として知られる。最初の一般教書演説(01年7月)でも4つの政策課題が示され、彼女の哲学が表れていた。すなわち、「1.21世紀にふさわしい、自由な企業哲学。つまり、無慈悲な自由万能ではなく、社会的良心を持った自由な企業。2.社会的公正に基づく、近代化された農業部門。3.経済開発とバランスをとるため、弱者に対して、社会的バイアスをもつ。4.政府と社会の道徳水準を上げる。」 
 同年11月政府が公表した『中期フィリピン開発計画2001‐2004』でも「自由企業・市場への依存が最も重要」と記された。教書、開発計画ともに「貧困廃絶」を目標としたが、貧しい人はあくまで、「社会的バイアス」の対象であり、最優先対象ではない。「自由な企業」「経済開発」が優先され、「社会的良心」は添え物のようだ。

海外依存型経済


 考えてみると、フィリピンは外国企業の投資、海外からの援助、さらに、海外居住者からの送金に頼る海外依存型の経済になっている。主要な製造業は日米欧企業が牛耳り、フィリピン系資本はショッピング・モール、携帯電話といったサービス産業や食品加工など一部製造業、不動産開発に偏る。産業基盤は日本や欧米、世界銀行、アジア開発銀行の援助に頼り、空港、港、発電所、道路、高架鉄道が整備されてきた。こうして、借りた建設費用(対外債務)の返済に国家予算の4割が費やされる。そのため、福祉・教育・住宅予算は切り詰められ、困窮した人々は国内に残るか、海外出稼ぎ・移住するか、選択を迫られる。さらに、海外居住者は家族、親戚に送金し、国家経済を支え、大統領は海外フィリピン人を「国民の英雄」とたたえる。送金が何とか庶民の購買力を支え、携帯電話の普及、ショッピング・モールの増加につながる。これが海外依存型のフィリピン経済の実像だ。
 実際、国内総生産(GDP)、海外からの送金を含む国民総生産(GNP)はともに、近年2?4%の成長率。だが、失業率は高い。03年1?3月期もGDPは4.5%成長したが、03年4月の失業率は12.2%、半失業率(週40時間以下の労働)は15.6%に達した。雇用なき成長であり、グローバル化の中で地場産業、中小産業が倒産していることも背景にある。原料の減少に悩むバラヤンの魚醤産業、同じく原料の不足、および、安い輸入品流入に直面するマリキナの靴産業も厳しい状況だ。たしかに、装飾品、カゴ、ココヤシ蒸留酒(ランバノグ)など、近年販路を拡大した産業もあるが、全体的に中小企業や地場産業は経済グローバル化の中で、十分な保護を受けられず、苦しい立場にある。

では、どうすれば


 では、どうしたらよいか。フィリピン政府は根本的に外資、外国援助、海外送金依存を見直し、少ない資本で雇用を生み出す地場産業を積極的に育成すべきだ。経済民主化、所得分配、公正な発展という視点からも、その育成が求められる。グローバル化に関しても、国内産業を保護するため、インド政府が完成革製品の輸入を禁止したように、自由化路線を再考すべきだ。また、地場産業の原料を確保するためにも、自然環境を守り、漁業や森林資源を保護せねばならない。環境については、日本政府もODAの計画、実施を再検討すべきだ。こうして、グローバル化を支える自由企業哲学ではなく、公正や環境に配慮した人間開発が求められている。

参照文献:拙著 『フィリピンの地場産業ともう一つの発展論 鍛冶屋と魚醤』、明石書店、1998。
拙著 People's Economy : Philippine Community-based Industries and Alternative Development, Solidaridad Publishing House, Manila, 2003.