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国際人権ひろば No.51(2003年09月発行号)
特集 カンボジア人権問題フィールドワーク Part1
カンボジアの再生とポルポト裁判
■ はじめに
カンボジアの人権問題と将来の発展を考える上で切り離すことができない重要な課題として、かつてのポルポト派の残した傷跡からどう立ち直るかという問題がある。このポルポトとは、1975年4月から1979年1月までカンボジアを支配した民主カンボジア共和国政府の首相の名前である。その約5年にわたる統治の間、170万人
※とも推定される多数に対する大量虐殺行為の最高責任者でもある。いま、カンボジアが過去の清算を果たし、真に民主的国家として再生し国際社会からの認知を得るために、これらの大量虐殺の責任を明らかにするとともに責任者を処罰することが国際社会から求められている。
そこで、今回のツアーでの印象を含めて、ポルポト派裁判の意味について簡潔に触れてみたい。
■ ポルポト時代の大量虐殺
ポルポト時代の大虐殺は「キリング・フィールド」(1984年、米国作品)という映画にも取り上げられたことがあるので、一般に知られていると思われる。しかし、映画化されてから、既に20年近く経過しているので若い方の間では知らないも人も少なくないだろう。
ポルポトは、政権を奪取した直後から、プノンペン市民を強制的に農村部に移住させ、農業生産に従事させ、自力更生の原始共産主義革命を実現しようとした。しかし、この強制移住だけでも多くの犠牲者を生み、その後の苛酷な強制労働による栄養失調、飢餓、病死によりさらに多くの人々を死に追いやった。また、猜疑心の強いポルポト派幹部は、同胞を徹底的に管理し、それに従わない人々を次々に拷問し、処刑に追いやった。そのような急進的なポルポト派は、結局内部路線の対立から隣国ベトナムの介入を招くことになり、1979年1月にベトナムの支援を受けたヘン・サムリン政権によってプノンペンを追われた。以後、タイとの国境付近の密林地帯に逃げ込んで、プノンペン政府に対して武装ゲリラ闘争を継続した。
1993年、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の下で総選挙が実施され、カンボジアは、民主主義と市場経済を軸とする立憲君主国となった。その後もポルポト派は、タイ国境付近の一部地域を支配し続けたが、次第にその勢力は弱体化し、1997年には武装解除に応じて投降した。同時に、ポルポトをはじめとする虐殺行為の責任者の刑事責任を問う声が高まった。しかし、そうした中でポルポト自身は何等の罪を問われることもなく、1998年にこの世を去ってしまった。
■ ツゥール・スレン虐殺博物館探訪
そのポルポト時代の大量虐殺の事実を今に伝えるのが、ツゥール・スレン虐殺博物館である。8月6日午前、ツアーの一行は、プノンペンの市内南部にある同博物館を訪れた。ここは、かつてポルポト時代にS-21収容所と呼ばれた虐殺収容所の跡である。建物は、かつて中学校であったためか、遠目には瀟洒に見えなくもない。しかし、周囲の塀はさび付いた荒々しい鉄条網により覆われているので、学校ではないことは一目瞭然である。
1979年プノンペンがベトナム軍によって解放された時に、ここが発見された。この収容所の最後の犠牲者であると思われるポルポト派の幹部数名の遺体が建物内部に横たわったままだった。現在、入り口横に整然と並んでいるのは、それらの人たちを葬った墓である。建物の内部に入ると、鉄製の足枷が付いた金網のようなベッドが置かれた小部屋が幾つか並んでいる。ここは、最後の犠牲者たちの死体が発見された当時の様子のままで公開されている。展示室内に入ると多数の拷問を受け、殺害されていった人々の顔写真が掲示されている。ここでは被収容者の写真等の記録が細かに記録されていたのである。膨大なデータを調べた結果、ここで1万4千余名が犠牲になったと言われている(詳しくは、デービット・チャンドラー『ポルポト-死の監獄S21』白揚社、2002年)。これらの犠牲者は、何等罪を犯した訳ではなく、大半が普通の庶民であった。ポルポト派が信奉していた急進的マルクス・レーニン主義の思想により勝手に階級の敵とされた人々がここに送られ、少年の面影を残す兵士たちに、拷問された上、殺害されていった。夥しい数の死体が、プノンペン郊外の村外れの地中から発見されている。
■ ポルポト派裁判の課題
ツゥール・スレン刑務所は、過去の虐殺を記憶にとどめ、忌まわしき愚かな行為を2度と繰り返すことのないようにとのメッセージを我々に伝えている。しかし、皮肉にも実際は、これらの残虐行為の責任は何等問われていない。
過去の例をみても、ナチスドイツのユダヤ人虐殺は、ニュルンベルグ裁判により断罪され、責任者は処罰された。その後にできた国連のジェノサイド条約によれば、そうした大量虐殺行為は、だれがどこでどのような理由で行った場合にも犯罪として処罰されなければならないとしている。最近、10年間でも旧ユーゴスラビア、アフリカのルワンダ、東ティモールで起こった虐殺行為は、国連の作った法廷により裁かれている。また、1998年には、国際刑事裁判所を設立する条約が採択され、同裁判所で裁かれる対象となる犯罪として大量虐殺行為が掲げられているのである。
ポルポト時代の虐殺行為については、各種の証拠、証言がある。事実は明確であるにも拘わらず、なぜこのような大量虐殺が行われたのか真の理由は不確かなままである(井上恭介、藤下超『なぜ同胞を殺したのか-ポルポト墜ちたユートピアの夢』NHK出版、2001年)。もしも、何らかの理由があるにせよ、大量虐殺の本当の理由とその責任の所在を明らかにして処罰がなされなければ、現代史上の汚点を残すことになるだろう。また、何よりもカンボジア国民が虐殺の真相解明を望んでいるのである。
カンボジア政府は、ポルポト派の投降後に国際裁判方式で処罰するために国連に協力を求め、国連もそれに積極的に応じようとした。しかし、その後カンボジア政府は、内政不安を抱えた状況下で国内融和と治安の安定を優先させようとして、国連の介入を極力抑えた形の裁判を主張して、国連と対立するようになった。一時は裁判自体の成立さえ危ぶまれたが、今年の6月に国連との協議がようやく整い、国連の協力の下でカンボジア国内に特別法廷を設置することが合意されたばかりである。合意された裁判所は、旧ユーゴ、ルワンダ型の臨時の国際裁判所ではない。裁判官の構成面では、カンボジア人裁判官だけでなく国際裁判官が入る形をとって、国際性を持たせたが、形としてはカンボジア人裁判官が多数を占める混合裁判所である。
■ おわりに
カンボジアの社会は、伝統的にはクメール文化と仏教の伝統を受け継ぎ豊かな国であった。しかし、ポルポト時代の虐殺とそれに続く内戦の傷痕は、今なお尾を引く形でこの国の発展を阻害している。UNTACの総選挙以後、民主化に向けてすべり出してきているが、市場化の波が一層の貧富の差を作り出している。この国をかつて直接、間接に蹂躙した国際社会は、この国の再建に責任を負うであろうし、その責任を果たすよう期待されている。
そうした支援に正当性を付与するためにも、国際的な基準によるポルポト派の裁判が必要とされよう。我が国も法整備支援活動や弁護士養成校の支援
(編集注)などを通じて、カンボジアにおける法の支配の実現と人権の促進に貢献している。さらにその方向を一歩進めて、ポルポト時代の大量虐殺を繰り返さないためにその責任を問う姿勢を明確にし、裁判所の設立を支援し、その運用に協力していくことが必要であろう。歴史を作るとはそういうことではないだろうか。
※ Ben Kiernan, "The Pol Pot Regime", Yale University Press, 1996.300万という推計もある。
(
編集注:『国際人権ひろば』
03年3月号・No.48参照してください)