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国際人権ひろば No.52(2003年11月発行号)

ヒューマンインタビュー

ベトナム人として、将来はベトナムの子どもたちのために役立ちたい


グエン・フイさん(Nguyen Huy) FM CO・CO・LO プログラム・スタッフ

プロフィール:
ベトナム出身。02年4月から、FM CO・CO・LOのプログラムスタッフとなり、毎週金曜日の21:30~23:30に放送される番組「TIENG NOI QUEHU'O'NG」(ベトナムの声という意味)のDJを担当している。仕事は、「@リンクサービス」という会社を経営し、中古パソコンの仕入販売や、翻訳・通訳などを手がけている。

聞き手:藤本伸樹(ヒューライツ大阪)


藤本:フイさんはかつて難民として来日されたとうかがっていますが、いきさつをお聞かせください。

フイ:日本に来たのは1981年10月で、19歳のときでした。ベトナムでは、79年からカンボジア、それに中国との戦争が始まりました。ちょうど激しくなった大学2年生のとき、徴兵命令が届きました。でも、戦争に行きたくなかったので、家族を離れて国内で隠れて、脱出するチャンスを待ちました。知人を介して乗ることができたボートで、うまく夜中に出航することができました。長さ9m、幅3mという小さなボートに50人が乗り込みました。多くは私と同じ兵役拒否をした10代から20代の独身者で、他は旧南ベトナム政権の役人とその家族でした。それまでに、脱出して消息不明になった人の話をよく聞いていたので、半分死ぬ覚悟もしていました。
 すぐに台風に遭い、船体を軽くするために水や食料の大半を海に投げ捨てました。3日目に公海上に出ることができ、何度も大きな船を見かけたけれど、トラブルに巻き込まれたくないのか、どの船も助けてくれませんでした。食料も水も尽きて限界に達した5日目のことでした。船長が日本人のパナパ船籍の船にやっと助けられたのです。
 その船は航海の途中だったので、私たちは香港で降ろされ、3ヵ月ほどそこの難民キャンプで過ごしました。行き先としてベトナムとの歴史的なつながりから考えて、フランスやアメリカにも関心がありましたが、結局同じアジアの日本を希望しました。

藤本:日本では当初、どんな日々を過ごしたのですか。

フイ:まず姫路市にある定住促進センターで4ヵ月ほど日本語や日本の習慣を習った後、大阪の寝屋川市にあるインキやペンキを作る会社に就職しました。当時、日本の景気はよかったので、日本語がほとんどできなかったけれどすぐに就職できました。ベトナム人は私一人だけでした。そこで2年間働きました。
 それから、もっと日本語を勉強しようと思い、日本語学校に6ヵ月通いました。83年からインドシナ難民連帯委員会という東京に本部のある市民団体の関西事務所のフルタイム・スタッフになりました。病院、子どもの入学・通学など生活相談や、通訳などが主な活動でした。95年の阪神淡路大震災で事務所が傾いてしまって、予算の事情で関西事務所は閉鎖されました。
 その後、難民事業本部の通訳の仕事をしながら、夜間のコンピューター専門学校に2年間通いました。そのおかげで、ベトナムに工場を持ち日本に研修生を受入れていた富士通の技術通訳になることができました。
 97年に元難民のベトナム女性と結婚しました。富士通との契約の終わった98年に妻とベトナム料理店を始めました。新しいことにチャレンジしてみたかったのです。でも、妻が妊娠したので、2年で閉店しました。自分の専門外の仕事だったのでひとりでは無理でした。それから、印刷会社の品質管理の仕事をするサラリーマンになりました。しばらくして、中古パソコンの輸出や在日ベトナム人のIT支援をする@リンクサービスを立ち上げたのです。

藤本:ずいぶんいろんな仕事に就いてきたのですね。日本でのこれまでの生活を振り返ってどんな感想ですか。

フイ:自分で目標を立てていろんなことができたから満足しています。一緒にベトナムを出国した人の半分はアメリカに行ったけれど、日本に来た人の多くは姫路に住んでサラリーマンをしながらがんばっています。

藤本:いまは、ベトナムに里帰りもできるようになりましたよね。

フイ:2年前に20年ぶりに里帰りをしました。ホーチンミン市は人もバイクも増えて混雑していたけれど、私と妻のふるさとはどちらものんびりしていました。私は両親を日本に呼び寄せようと考えたことがありますが、2人ともベトナムに住み続けたいそうです。

藤本:ところで、元ベトナム難民の人のなかには、日本国籍をとる人もいますが、フイさんはどうお考えですか。

フイ:私はベトナム国籍です。でも、元難民だということでベトナム政府からパスポートは発給してもらえません。状況が変われば、ベトナムに戻って政治家になるのが私の夢なのです。毎日インターネットでベトナムのニュースに目を通していますが、ベトナムの情勢は確かによくなってきたけれど、子どもたちの状況はよくありません。政治家になり、子どもたちが幸せに暮らせるよう貢献したいと思っています。これは別に、反政府活動をするという意味ではなく、子どもたちのために活動したいのです。

藤本:実現するといいですね。では、話題をご担当のラジオ番組へとシフトしますが、リスナーはどんな人たちですか。

フイ:ベトナムから日本企業に来ているいわゆる研修生・実習生が一番多いです。その理由は、寂しくてベトナム語やベトナムの話題が恋しいのでしょうね。あとは、日本に長く住んでいるけれど日本語をあまり理解しない年配の定住者がけっこう聴いてくれています。教会に行ってリスナーに会ったとき、音楽のリクエストを受けたり、番組への要望を聞いたりします。

藤本:番組は日本語も話されているけれど、ほとんどベトナム語ですよね。どんな内容で構成されていますか。

フイ:ベトナムの最新ヒット曲や面白い情報です。また、日本での生活情報や日本のニュースをコンパクトに紹介しています。ベトナムや日本をはじめいろんな国の文化情報なども紹介しています。
 実は、私は日本のフォークソングが大好きです。南こうせつやアリス、イルカの歌の詩やメロディはいいですね。番組では、詩の意味をベトナム語に訳して紹介しています。ベトナムの人も好んで聴いてくれます。ですから、私のもうひとつの夢は、いつかベトナムで日本の70年代から80年代にかけてのフォークのコンサートを開くことなのです。

藤本:最後にお子さんのことについてうかがいたいのですが。

フイ:カオリという名の3歳になる娘がいます。カオリは、ベトナム語では「高いふるさと」という意味です。カオはベトナム語で高いと言う意味があり、日本語のリ(里)はふるさとです。妻の故郷は高原にあったことと、日本人にも呼びやすい発音ではないかと思って名付けたのです。

藤本:どんな子に育てたいですか。

フイ:僕としてはピアニストになってもらいたいけど、無理かもしれません。いつも野球のバットを振っています。

藤本:カオリちゃんは、兵庫県代表として甲子園で活躍した東洋大姫路高校野球部のエースのアン君の女の子版ですね(笑)。アン君みたいに甲子園に出て活躍するようなベトナム人の若者がもっと現れるようになるといいですね。

フイ:私は、彼がプロ野球の選手になって活躍するかどうか関心があります。番組で彼をインタビューしたいのですが、夜遅くまで練習しているので時間がとれないため、彼の両親にインタビューをしたことがあります。日本人リスナーもアン君のことはよく知っていて、試合のたびに応援してくれていました。

グエン・トラン・フォク・アンさん。元難民を両親に持つ1985年日本生まれのベトナム人。