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国際人権ひろば No.53(2004年01月発行号)
国際化と人権
香港・インターネットが結ぶ市民パワー -「治安維持法」を撤回させ、完全直接選挙をめざす
鳥カゴ民主主義からの挑戦
返還後の香港は、中国の特別行政区として、外交と防衛以外は香港市民に委ねられる「港人治港」が保障されている。だが、香港の大統領にあたる行政長官は、中国政府が選んだ800 人の親中派財界人の互選で決められるうえ、国会にあたる立法会は、議員定数60人のうち市民の直接選挙で選ばれるのはわずかに24人にすぎず、他は業界・職能団体の経営者らの互選などで選ばれた議員によって占められている。
しかし、戦後の香港は、マスメディアの発達と高い教育レベルを背景に、英語・広東語を母語とする香港コミュニティが形成されてきた歴史がある。このような意識の高い人々に、民主主義に逆行する制限選挙制などの仕組みは、そもそもふさわしくない。
ところが、返還後の舵取りを任された董建華行政長官は、議会や官僚の意向を無視して少数の側近で政策決定にあたる独裁型の指導者だった。返還後、アジア通貨危機と共に始まった長期不況に有効な手だてを打てなかったばかりか、SARSの流行では初期対応を誤り、世界じゅうを感染の恐怖に陥れてしまった。
「治安維持法」反対の声を結んだインターネット
その董建華行政長官が2002年2月に再選された後に着手したのが、国家安全条例(さしずめ「治安維持法」にあたる)の制定作業だった。
香港の憲法にあたる香港基本法(1990年4月4日、全国人民代表大会制定)の23条には、反逆、国家分裂、反乱策動、中央人民政府転覆、国家機密窃取を禁じ、外国の政治的組織の香港での活動や、香港の政治的組織が外国のこれらの組織と関係することを禁ずる法律を自ら定めることを義務づけられている。国家安全条例制定の根拠はここにあり、いわば、中国政府から香港特区政府が課せられた宿題ともいうべき性格をもつ。
だが、制定作業の進捗と共にその内容が明らかになると、香港市民の間から国家安全条例の危険性を指摘する声があがるようになった。たまたま、国家機密を入手したというだけで、国家反逆罪に問われかねないことや、NGO間の連絡も外国へのスパイ行為とみなされかねないなど、市民の日常に恣意的な弾圧が加えられる治安立法としての性格を濃厚に帯びていたからだ。
このため、危機感をもった香港の市民グループ48団体で立ち上げたのが、その後の反対運動の中核となる
民間人権陣線である。このほかにも、カトリック正義と平和協議会香港教区や、プロテスタントの朱耀明牧師らが主宰する
香港民主発展網絡もそのホームページで警鐘を打ち鳴らした。齋心反23(英文名:We Love Hong Kong)のホームページでは、董長官の悪政を一般向けにわかりやすく要約してチャートで示し、市民運動の動きも豊富な写真で紹介されている。
政府側も宣伝戦では負けてはいない。
実施基本法23条のホームページを通じて、董長官や国家安全条例制定作業の責任者である葉劉淑儀保安長官の会見映像を流し、「国家安全条例は人権を侵害しない」と、宣伝にこれ努めた。だが、反対の声はいっこうにおさまらない。
02年12月15日には、国家安全条例の立法に反対する6万人デモも行われた。対抗して、香港政府を支持する推進派も翌12月22日に「国家安全、人人有責」と題した4万人デモを行った。法案をめぐる香港の世論はまっ二つに割れたが、この時点での賛否は、民衆レベルでの民主派・親中国派の力関係にほぼ比例していた。
七・一 50万人デモの衝撃
情勢が変わったのは2003年になってからだ。中国では3月の全国人民代表大会で胡錦濤国家主席、温家宝首相が選出され、保守的な江沢民国家主席から大幅に若返り、指導者の改革指向が強く印象づけられた。このころ、香港では新型肺炎SARSの感染が深刻になり、「ヤフー香港」の世論調査では、ほぼ半数の人が江沢民人脈につらなる董長官の行政責任を追及していた。
02年7月1日、民間人権陣線が香港返還六周年を期して呼びかけた国家安全条例反対デモには、
香港教育専業人員協会や
香港職工会連盟(当ページのビデオ映像は圧巻)や、香港記者協会など労働組合の参加もあり、炎天下のなか、主催者の予想をはるかに超えた50万人(香港人口の13分の1)の市民が集まる大デモとなった。そしてその参加者の多くが「インターネットを見て来た」と話していたのである。(富柏村のゑぶさひと「柏村散人日剰2003年7月1日付、
http://fookpaktsuen.tripod.com/)
この衝撃的なデモの規模に、董政権の一角を担ってきた
自由党(財界派)の態度が変わった。同党の田北俊主席は、急きょ北京に飛んで中国政府が国家安全条例を急いでいないことを確認。7月6日には単独で行政会議(内閣に相当)からの離脱を表明した。自由党が慎重論に回ったことで、董長官の国家安全条例制定強行は出来なくなった。
7月16日には国家安全条例を推進してきた葉劉淑儀保安局長と梁錦松財政局長も相次いで辞任し、香港は返還後最大の政治危機に直面したのである。
勢いづいた市民グループは、7月9日に5万人が立法会ビルを包囲して気勢をあげたほか、7月13日には2万人がセントラル皇后像広場で民主大会を開き、07年の行政長官選挙と08年の立法会選挙を完全な直接選挙で行うよう要求する民主宣言を採択した。さらに董長官の施政責任を追及するグループは、新たに民主倒董力量を立ち上げた。
そのホームページには、映像コーナー、遊戯コーナー、音楽コーナーなど、老若男女を問わず楽しめるさまざまな工夫がある。とくに音楽コーナーは
音公館を主催する林子揚氏の作品群。運動のなかで唄われた数ある愛唱歌のなかには、「忍者ハットリ君」や「ドラエモン」など、日本製アニメ主題歌の替え唄が多数含まれている。大衆文化を通じた日本と香港との思いがけない出会いに、思わずニヤリとさせられる。
香港には1958年に
香港専上学生連会が組織されていたが、今回の七一デモを機に、中学・高校生による
香港中学生連盟も結成された。このように、国家安全条例反対運動は、若い世代に激しい政治的覚醒をもたらした。
完全直接選挙をめざす
50万人デモは台湾でも大きく報じられた。台湾の与野党は相次いで「香港の一国両制は失敗した」という談話を発表したが、とくに独立派に与えたインパクトは強く、03年9月6日の台湾正名大デモ(主催者発表15万人)、10月25日の新憲法制定・国民投票支持大デモ(主催者発表18万人)など、香港の50万人デモをモデルにとった大衆動員が続いている。03年3月20日の総統選を前に、2月28日には「陳水扁支持 100万人デモ」を実施し、大衆動員をテコに、基礎票で見劣りする陳水扁総統の再選を狙う。
こうした空気を察知していたのか、これに先立つ03年9月5日、董長官は急きょ記者会見を開き、国家安全条例草案の全面撤回を発表した。香港紙『明報』には、台湾問題への悪影響を避けるため、背後で中国政府が動いたという学者の分析が紹介されている。
03年11月23日、香港で返還後2回目の区議会選挙(統一地方選に相当)が行われた。注目されたのは公民起動,七一人民批など、20代前半の若者たちが新党を作って選挙戦を戦ったことだ。他の民主派と共倒れにならないよう、親中派が牙城としている選挙区に挑み、公民起動は5人の候補者のうち3人を当選させる好成績だった。この選挙では、
民主党 前線など既存の民主派政党もそれぞれ大幅に議席増を果たした。
一方、大敗した親中派の
民主建港連盟では、曽 成主席が引責辞任。代わって選出された馬力新主席は、董政権の行政会議に不参加を表明し、今後は香港特区政府の施政に是々非々で臨む姿勢を明らかにした。
パソコンさえあればだれでも参加できるインターネットは、東アジア各地で新しい政治潮流を巻き起こしつつある。いまやアジアのネット人口は世界有数の規模で拡大しつづけている。香港で「七一50万人デモ」を大成功に導いたこの力を人権・民主の伸長のために役立てない手はない。