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国際人権ひろば No.54(2004年03月発行号)

現代国際人権考

「性と生殖に関する権利」の再認識を

畑 律江 (はた りつえ) 毎日新聞学芸部編集委員・ヒューライツ大阪企画運営委員

代理出産と着床前診断


 生殖医療にかかわるニュースが次々に飛び込んでくるようになった。病気のために子宮を全摘した女性タレントとその夫がアメリカに渡り、日本では禁止されている代理出産によって子どもをもうけたニュースは記憶に新しい。続いて神戸市の産婦人科医が、独断で受精卵の「着床前診断」を行ったことも報じられた。
 着床前診断とは、女性の体から卵子を取り出し、体外で受精させ、受精卵が4~8個に分割したところで1細胞を取り出し分析する方法である。異常がないとわかった場合に、残りの細胞を子宮に戻し、妊娠・出産する。胎児の段階で羊水などを調べる「出生前診断」に比べれば、母体への負担は少なくてすむ。しかし受精卵を選別する技術には重い生命倫理の問題がつきまとううえ、安全性の問題も残る。このため日本産科婦人科学会は、着床前診断の対象を重篤な遺伝性疾患に限定し、歯止めをかけている。ところがこの神戸の医師は、「男女の産み分け」と「高齢出産」を理由に3組の夫婦に着床前診断を実施していた。余りに短絡的な「ルール違反」だとして、医師は学会から除名された。
 こうした生殖医療のニュースに関してはさまざまな議論がなされる。そんな中で、今回はとても気になる意見を幾度か耳にした。着床前診断について「男女産み分けに利用するのは親の都合に過ぎない」と批判する人は多かったのだが、それに続けて「着床前診断が命の選別だとして禁止されるのなら、現在行われている大量の人工妊娠中絶も重大な命の選別ではないか」と、人工妊娠中絶の容認自体を疑問視する声があったのである。

女性の自己決定権の主張の背景


 1994年、カイロで開かれた国連の国際人口・開発会議で採択された行動計画の中に「リプロダクティブ・ヘルス/ライツ(性と生殖に関する健康/権利)」という新しい概念が取り入れられ、その後の北京女性会議(1995年)や、ニューヨークでの女性2000年会議でも重要な課題になった。これは「身体的・精神的・社会的に良好な状態」で「安全で満足な性生活を営めること、子どもを産むかどうか、産むならばいつ、何人産むかを決定する自由を持つ」ことと定義されている。そしてこの概念は、女性が自分の意思で人生について選択できる「自己決定権」を尊重する考え方に基づいている。だが、この「自己決定権」という言葉を、表層的な女性の欲望の問題としてとらえてしまうと、人工妊娠中絶をひとまとめに「命の選別」と名づけて断罪する議論が生まれかねない。
 そもそも女性の自己決定権とは、これまで国家や家族や夫によって支配されてきた女性の身体や生殖の機能を、女性自身の手に取り戻すという文脈の中でこそ理解されるべきものである。イギリスでは二十世紀初頭でも、未婚で子どもを産むと「理性がない」として精神病院に入れられることがあったという。「遺伝性疾患を持つ子孫の出生予防」を目指したナチス・ドイツの時代には、「自分はふしだらだから子宮をとられるのだ」と思い込まされて不妊手術を受けた女性がいた。発展途上国の女性たちが「人口管理」のために十分な説明もなく安全性を欠く避妊処置をされていた事実もあるし、日本の女性たちも戦時中は「産めよ増やせよ」と国家から出産を奨励され、産めないと激しい差別を受けた。家父長制のもと、連綿と続いたこうした悲しみの末に世界の女性たちがようやく高く掲げるに至った権利が、この「自己決定権」なのである。

生殖医療をめぐる議論に深い関心を


 また女性の自己決定権とは、性と生殖に関する事柄をすべて女性が背負い込むという意味で用いられるのではない。新聞報道などによると、着床前診断をした神戸市の医師は、「すべての女性は幸せになる権利がある」と述べたという。だが生殖に関する事柄を社会から切り離して女性と胎児との閉じた「二者関係」の中だけでとらえ、女性たちが「結婚して、望ましい資質の子どもを2人育てる」といった画一的な「幸せ」に近づくための努力に追い込まれていくとしたら、生殖医療のベルトコンベアーはますます歯止めをなくすだろう。生殖医療はまた、経済的な格差をも表面化させる。世界の女性が、医療を受ける側と子宮や卵子を提供する側とに分断されていく危険性も考えられるのである。
 だが一方で、こうした流れをくいとめるために女性の自己決定権を、その真の意義をかえりみずに攻撃し、否定しようとするのも、まことに危険な議論である。女性が自分の手に取り戻そうと闘ってきた身体や生殖の機能を、再び第三者の支配下に譲り渡す動きにつながりかねない。
 生殖技術の登場によって、女性の自己決定権は確かに新たな問題を抱え込むことになった。だが、女性の前に新しい視野を開いた「性と生殖に関する権利」の真意がゆがめられてはならない。生殖医療をめぐる議論を、今こそ注意深く見つめていく必要がある。