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国際人権ひろば No.55(2004年05月発行号)
国際化と人権
2003・12・26 -イラン大地震後の支援について思うこと
村井 雅清 (むらい まさきよ) (特活)CODE海外災害援助市民センター理事
繰り返される災害
阪神・淡路大震災から丁度10年目に入る被災地KOBEでは、いつものように、でも確実に新しい1ページを刻む準備をしていた。その矢先の2003年末の12月26日、死者41,500人を数える大惨事となる地震がイランで発生した。被災地は、首都テヘランから約1,000km離れた「ナツメヤシ」と「2千年の古都・アルゲバム」で有名だった人口約14万人の"バム"である。
大惨事となった原因は、建物の倒壊による被害である。10年前の阪神・淡路大震災と同じだ。1999年のトルコ・マルマラ海地震も、2001年のインド・グジャラート地震も同じだ。判っていて何故悲劇を繰り返すのだろうか?
地震発生後の10日目に被災地バムに立ったとき、言いようのない怒りがこみ上げてきた。「何でこんな悲劇を繰り返すのか!人の命をこんなにも軽々しく扱っていいのか!」と。長い歴史が積み上げてきた「土の文化」の一つである「日干し煉瓦」の住まいから、鉄骨を組み合わせた現代的な建築方法に変わって間もない今発生した、家屋倒壊による下敷きなどの被害だった。
イランの被災地の住民たち
2度目に被災地を訪問したとき(04年3月6日~12日)、全壊した幼稚園やテント村などを視察した。半分以上の園児が亡くなった幼稚園では、毎日園長さんが泣いているそうだ。テントもない炎天下で先生と子どもたちは新年(3月21日)の準備をしていた。
20代前半と思われる女性の先生は、まるで何事もなかったかのように子どもと遊んでいる。その姿はあまりにも痛ましい。一方テント村では、テヘランから支援に入っているNGOのサポートで、女性達が縫製教室や手芸品づくりに積極的に参加している。表情を見ていると、やはり何事もなかったかのように振る舞っている。
また、夜になると被災者は"たき火"を囲み暖を取っているのだが、むしろ各々が火を囲み厳しい現実と向き合っているように見える。阪神・淡路大震災のあとも、こうした光景が被災地のあちこちにあった。みんな火を囲んでいるが、語り合うわけでもない。しかし、その場の空間は何故か落ち着く。
被災者はこうして、バム住民の3~4人のうち1人を亡くすという事実と向き合うことで、いつかこの事実をしっかり受け止め、前を向いて生きていかなければならない。被災者が「いまを生きる」ために絞り出すエネルギーは、きっとこれから長期に亘る復興へのエネルギーへと転換されるだろう。CODEは、こうしたエネルギーの移行をサポートしたいと考えている。建物もそうだが、理想的には100年壊れないしくみづくりを支援することがCODEの役割だと認識する。
銃から鍬へ-よみがえれアフガニスタン
イラン地震の被災地バムの視察を終え、その足で6度目のアフガニスタン・カブール入りをした(3月13日~16日)。23年間の戦禍に一応の終止符を打ち、人々は再建に汗を流している。CODEが支援する首都カブールの北部30kmに位置するシャモリ平原のぶどう畑は、もともとアフガニスタンでも有数のぶどうの産地だった。この地は、北部同盟とタリバーンが激しく衝突し、一旦は家も畑も、大事な水路(カレーズという)も、ほとんど壊滅状態になっていた。
あの2001年10月8日の米英軍による空爆以来、この地の人たちも一時散り散り、ばらばらに避難し、この村には誰も住んでいない状態であった。2002年の1月から少し帰還者が見え、翌2003年には60%の村人達が戻ってきたらしい。CODEは、このシャモリ平原にある4つの村から約300世帯のぶどう農家を選んでいただき、ぶどう畑再建のプロジェクトを始めた。
ぶどうを育てながら「平和」を耕す
農家の人たちは、1年間が終わった2004年3月、2年目の畑の手入れに精をだしていた。訪問先の農家の人たちは、みんなほんとにCODEの支援を喜んでくれた。話を聞くと「2年目から3年目へとつながる希望が見えた」と言ってくれる。やはり「ぶどう」という生き物を育てる過程には、ドラマが存在する。
ぶどうがスクスク育つには、水と土と心(人)が必要になる。カレーズという地下水路を修理する人も、一度は死んだ畑を再生する人も、そして新しいぶどうの苗を植える人も、みんな各々が、自分の愛おしい子どもを育てるかのような眼差しと手で、水と土と突き合っている。40メートルも掘った井戸から、出てきてくれた若者に聞いてみた。
「この仕事はつらいですか?」「戦争は二度としたくない。兵士以外なら何でもして働く。ぶどう畑で働けるならすばらしいが」と答えてくれた。やむを得ず銃を握ってきた若い兵士達は、ほんとは戦争などしたくないことがわかった。
CODEは、村の元兵士にアンケートを取り、希望があれば、ぶどう栽培を通して銃を放し鍬を握る仕事へと転換させて行く計画を練り始めた。「ぶどう栽培をしながら、具体的に平和の構築につながる活動をしませんか?」と尋ねると、恥ずかしそうに下を見ながら「教えてくれたら何でもやるよ!方法がわからないんだ!どんどんアドバイスが欲しい」と訴えてくれた。
私たちが、平和ボケした日本の国で叫ぶ「平和」と、アフガニスタンの人々がいう「平和」とは重みが違う。23年間も戦禍に見舞われてきた彼等から発せられる「平和」という言葉を聞く度に身震いを覚える。一時は焼き討ちにされたぶどう畑も、こうして見事に甦った。きっとアフガニスタンは、甦ると確信する。でもCODEはとりあえず、いま、アフガニスタンの全土からすると"点"にしか過ぎない4つの村から、大胆にも「平和構築」を発信していきたいと思う。
CODEのめざすもの
イラン地震支援とアフガニスタンの紛争災害後の支援の内容をレポートさせて頂きました。そもそも「特定非営利活動法人 CODE海外災害援助市民センター」は、1995年に発生した阪神・淡路大震災をきっかけとして、2002年1月に発足し、翌2003年12月にNPO法人となりました。
10年前のあの時以来、あらためて命の大切さとたった一人を大切にすることの重要性を知りました。そして、2001年の「9・11」以来、「最大の防災は、戦争を起こす前に止めること」だと気づき、国内外に発信しています。
しかし、残念ながら2003年3月、またしても米英によるイラク攻撃が始まり、日本政府などがそれを支援しはじめて1年が過ぎたいま、イラクは泥沼状態に陥っています。そもそも、イラクのフセイン政権が「大量破壊兵器」を持っているだろうという推測から攻撃が始まり、何の罪もない無辜なる市民数千人が巻き添えに遭って殺されたころに、当のアメリカのブッシュ政権は「大量破壊兵器」がなかったことを事実上認める発言をしました。
「自然」災害は、事前に防ぐことは難しいです。しかし、戦争は防ぐことができます。何故ならば人間が戦争に関わりを持たなければすむことだから。(CODEのウエブ http://www.code-jp.org/)
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