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国際人権ひろば No.55(2004年05月発行号)

特集:先端医療と人権 Part3

市民とヒトゲノム

利光 恵子 (としみつ けいこ) 優生思想を問うネットワーク

■ 市民と遺伝子医学


 このところ、「ヒトゲノム」(ヒトのすべての遺伝情報)をめぐって、多くの金と人とシステムがすごい勢いで動き出している。「遺伝子は、宝の山」「世界的潮流に乗り遅れるな」「今、遺伝子に手を出さなければ企業の将来はない」とばかりに、産官学が一体となって、遺伝子解析の推進とその産業利用に向けて奔走している。それにともなって、血液や臓器・組織といった試料の収集や利用もさかんだ。だが、私たち市民は、研究材料や産業資源として、遺伝子そのものや個人の遺伝情報やからだ情報の提供を求められるだけで、実際に何が行われようとしているのかについて詳細に説明もされず、これらが私たちの社会になにをもたらすのかも明確にとらえきれないでいる。

■ 「ミレニアム・ゲノム・プロジェクトは非常にデカイ工場のようなもの」


 私たち「優生思想を問うネットワーク」は、遺伝子医学や先端医療技術のもつ様々な問題点、特にこれらの技術がはらむ生命操作や優生思想の問題について、市民の立場から考え行動している団体である。
 私たちが、初めて遺伝子解析研究のすさまじい実態にぶつかったのは、今から5年前、1999年晩秋の国立循環器病センター(以下、国循と略す)との交渉の席だった。「国循の倫理委員会が循環器病と遺伝子の関係を探る研究のために、集団検診受診者の血液を用いてDNAを解析し、保存することを承認した」という小さな新聞記事に不安を抱いた私たちは、公開質問状を携えて国循を訪れた。担当者から説明を聞く中で、今まですでに、本人の承諾も得ずに、集団検診で得られた市民5,000人の血液を流用して、遺伝子解析を行っていたことを知ってびっくりした(注1)
 だが、私たちの驚きはこれだけに終わらなかった。「今回、新聞で報道された検診受診者の血液の遺伝子解析・保存という研究計画は、来年度から始まる厚生省(当時)のミレニアム・ゲノム・プロジェクトの一環として行うものです。スペースの確保など、今、その準備に追われています。このプロジェクトは、非常にバカデカイ話、ある意味で工場のようなものですから」という担当者の話に、なんとも大変なことが始まろうとしていると背筋が寒くなった。

■ 市民はかやの外に置かれたまま急激に進行する大規模な遺伝子解析事業


 私たち市民には何ひとつ知らされていなかったのだが、その当時、政府は巨額の予算を投じて、「新しい産業を生み出す大胆な技術革新に取り組む」ためにミレニアム・ゲノム・プロジェクトを開始しようとしていた。
 2000年からの5年計画で、国循などの国立高度医療センターや大学が中心になって、多くの人々から血液・組織などの生体試料を収集し、遺伝子解析を大規模に実施するというもの。高血圧、痴呆、がん、糖尿病、アレルギー疾患などの病気や薬剤の効き方に関連する遺伝子を解明し、画期的な新薬の開発など産業育成につなげようというのだ。以来、全国あちこちで、多くの研究機関や企業によって、大小様々な規模の遺伝子解析事業が行われ、そのための試料収集が行われている。
 さらに、03年4月からは、文部科学省が中心となって「オーダーメイド医療実現化プロジェクト」と称して、30万人規模の遺伝子バンク作りも始まった。全国51の医療機関で受診した患者から、血液とともに、病歴や服薬歴、検査結果、生活歴、家族の状態などの情報(つまり、カルテに書かれている個人情報すべて)を収集。血液から取り出したDNAや血清及び臨床情報は、東大医科学研究所の中にある「バイオバンク・ジャパン」や「統合臨床データベース」に保存され、研究機関や民間企業の求めに応じて提供される。
 そして、研究成果を用いて画期的な新薬や診断法を生みだし、医療機器産業・製薬企業・検査産業を活性化させることを目指す。また、遺伝子解析によって有用な医療情報を得るためには、同時に膨大な個々人のカルテ情報をデータベース化し、遺伝子と臨床情報の関連を調べる必要がある。そこで、カルテのデータベース整備などを通してIT産業の医療分野への浸透も促すことで経済効果を高めようというのだ。
 ここで利用されるサンプルや医療情報は私たち市民のものだ。にもかかわらず、私たちがその存在を知ったのは、またもや、既に予算が計上されプロジェクトが動き出した後だった。

■「夢のオーダーメイド医療実現」というけれども


 これら大規模な遺伝子解析プロジェクトが最終的に目指すものとして掲げているのが、個々人の遺伝情報に応じた「オーダーメイド医療の実現」である。だが、そこに描き出されるのは、本当に私たち市民の望む医療、安心できる社会なのだろうか。
 このプロジェクトの進行に伴って、新たな遺伝子検査技術や検査用医療機器が次々と開発され、日常の医療現場に導入されるのは確実だ。健康診断にも、「病気を予知する」ものとして遺伝子診断が取り入れられるだろう。
 「病気」というのは、本来、その人をとりまく環境、人間関係、労働条件、社会的・経済的基盤などと複雑に関係して発症するものだ。が、遺伝子診断が頻繁に行われ、個人の遺伝的リスクが強調されることで、「病気はあなた個人の責任」と矮小化されてしまう危険性がきわめて高い。
 例えば、企業の健康診断の一環として行われた遺伝子検査で、ある病気になりやすいことが分かった場合、発症を防ぐよう労働条件を改善したり、職場から汚染物質を除去するといった環境整備に力を注ぐのではなく、強制的な配置転換や解雇、あるいは採用の撤回に結び付くのではないか。さらには、病いや障害とともに暮らす人への社会的支援体制や福祉の充実をはかるよりも、てっとり早く、受精卵や胎児の遺伝子診断で、ある病気になりやすいものは選別するという方向に向かうのではないか。
 その他にも、プロジェクト進行に伴って、大規模な医療情報システムが構築され、そこに個人の臨床情報や遺伝情報がデータベース化されて組み込まれることで、医療の名による管理が進むのではないか、人のからだそのものを資源として用いる流れが強まるのではないかなど、私たちは多くの懸念を抱いている。
 研究成果がもたらすかもしれない莫大な利潤にのみ目を奪われ、遺伝子解析事業がやみくもに進行すれば、将来に大きな禍根を残すに違いない。今一度、これらプロジェクト実施によって起こり得る問題や、医療・社会にもたらす影響について検証すること、そして、市民を交えて広く論議することを訴えたい。

(注1) この無断遺伝子解析の実態は、後にマスコミで大々的に報道され、国循は9回の「謝罪・説明会」を実施した後、引き続き保存・利用することに同意しなかった約900人分のデータと検体を破棄することになった。
 その後、ガイドライン作りが行われ、2001年3月に、文部科学省・厚生労働省・経済産業省が共同で「ヒトゲノム・遺伝子解析研究に関する倫理指針」をまとめたが、問題も多い。
 例えば、提供時に、「医学研究への利用に同意」しただけで遺伝子解析についての同意を得ていなくても、あるいは医学研究に用いること自体に同意を得ていない場合でさえ、倫理審査委員会が利用を承認し、研究機関の長が許可すれば遺伝子解析研究に用いることが出来るとしている。つまり、国循で行われた無断遺伝子解析も、倫理委員会が認めれば許されるということだ。