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国際人権ひろば No.55(2004年05月発行号)

特集:先端医療と人権 Part2

遺伝子治療を考える

御輿 久美子 (おごし くみこ) 奈良県立医科大学 公衆衛生学教室

■ 治療効果に乏しい遺伝子治療


 遺伝子治療、正確には「遺伝子治療臨床研究」と呼ばれる、人体への遺伝子あるいは遺伝子を導入した細胞の投与実験がある。遺伝子治療と呼ばれているが、治療効果はほとんどない。何か画期的な治療法の開発になるかもしれないと期待して行われている人体への投与実験である。日本では1995年北海道大学医学部附属病院でADA欠損症という疾患をもつ子に実施され、その後、04年2月までに12大学の医学部附属病院と財団法人癌研究会附属病院で腎、肺、前立腺、乳がんなど主として癌を対象に計画され、厚生労働省によって計画が承認され実施されている。
 遺伝子治療臨床研究が開始されたときの対象疾患は、米国でも日本でもADA欠損症という非常にまれな遺伝子の異常によってひきおこされる免疫不全疾患であった。そして、どちらの国でも第1号患者だけが従来の治療薬の併用があるものの、いくらかの治療効果があったといわれている。その後、対象疾患は患者数の多い癌に移行し、これまでに500以上の臨床実験が行われている。しかしながら、治療効果は皆無に近く、有害性の方が高い。しかも有害な影響は、計画以前から予想されていたものである。

■「治療」のもたらすリスク


 体内の細胞に遺伝子を入れる治療がある。これを"遺伝子を導入する"というが、そのためには遺伝子を細胞内に運び込むものが必要で、これをベクターと呼んでいる。通常、ベクターは感染性のあるウイルスであるレトロウイルスやアデノウイルスが用いられる。ところが、これらウイルスベクターには、いくつかの欠点がある。人に対する有害性としては、レトロウイルスベクターには癌を引きおこす危険性が、アデノウイルスベクターには強い免疫反応があらわれることが当初より指摘されていた。そして、どちらのベクターについても、その指摘が現実となっている。
 アデノウイルスベクター投与による遺伝子治療実験では、99年9月ペンシルベニア大学遺伝子治療研究所における治療実験で、18歳の少年患者が死亡した。また、レトロウイルスベクターについては99年にフランスでX連鎖重症複合免疫不全症患者10人に対する臨床実験を開始し、治療効果が期待できる9人について投与を継続したところ、02年、03年と若い2人の患者に白血病が発生したことが報告されている。
 遺伝子治療臨床研究が実験ではなく治療として成り立つには、細胞に遺伝子を運び込むという役割をもち、しかも人体に有害な影響のないベクターが用いられることが必須なのであるが、そういうベクターはまだつくられていない。90年に米国で臨床実験が始まって以来、有効性を追求したベクターの開発が進められ、その結果、死者や白血病が引きおこされた。これからも有効でかつ安全なベクターがつくられる見込みは少ない。
 それでも、効力のあるベクターを求めて研究は推進され、人に投与するという臨床研究が日本で進められてきた。この遺伝子治療臨床研究に対する補助金の交付額は巨額である。一例を挙げれば、厚生労働省が「基盤研究成果の臨床応用研究」という一つの研究事業に出した補助金は、02年度12.3億円、03年度11億円である。

■ 安全性が軽視された臨床研究


 遺伝子治療臨床研究は、治療方法となる可能性を求めて開発・改良・遺伝子改変を行っていこうとしている実験研究であり、治療法として存在しているわけではない。そのことは厚生労働省も文部科学省も十分に承知している。承知した上で推進しているのである。02年3月27日に告示された『遺伝子治療臨床研究に関する指針』(平成14年文部科学省・厚生労働省告示1号)は、「遺伝子治療の臨床研究に関して遵守すべき事項を定め、もって遺伝子治療臨床研究の医療上の有用性及び倫理性を確保し、社会に開かれた形での適正な実施を図ることを目的」として、「遺伝子治療臨床研究は、有効かつ安全なものであることが十分な科学的知見に基づき予測されるものに限られるものとする」とあるので、被験者の安全が図られているかのように見えるが、実際のところは被験者の安全は二の次で、研究の推進を図っているのである。
 まず、その第三条で、対象疾患を「重篤な遺伝性疾患、がん、後天性免疫不全症候群その他の生命を脅かす疾患又は身体の機能を著しく損なう疾患であること」として「致死性の疾患」に限定していた旧指針から大幅に拡大し、さらに、治療効果が「現在可能な他の方法と比較して優れていることが十分に予測されるものであること」、「被験者にとって遺伝子治療臨床研究により得られる利益が、不利益を上回ることが十分予測されるものである」ことを判断基準にしていることである。
 字づらだけを見れば、対象疾患が飛躍的に拡大されたことも、「予測」というあいまいな判断基準であることも印象が薄く、他方、これらの3条件すべてに適合する場合に限るという文言が目立って、かなり厳しい基準であるかのような印象を受けてしまうのだが、実際にこの基準に沿って審議され承認された研究計画をみれば、これら3条件は事実上何も規制していないに等しいことがわかる。
 たとえば、レトロウイルスベクターの投与によってフランスで9人中2名の白血病の発生が報告されたとき、レトロベクターを使用する計画が3つ出されていたが、フォローアップ計画を充実することと、説明と同意文書を改訂することで、いずれも承認されている。フォローアップ計画の充実といっても、細胞の異常増殖がみられた場合さらに詳しく検査するということであり、説明文書の改訂とは、将来がんの発生が起こる可能性があるということを書いておくというものである。それら3つの計画のひとつ、乳がんの化学療法の有効性を高めるための研究は、レトロウイルスベクター使用による危険性だけでなく、治療目的としても従来の方法と比較して優れているとは思われず、また、利益が不利益を上回るとも思えないものである。
 人の命を軽視しているのでなければ、「予測される」というようなあいまいな主観的な判断で人への適用を認めるべきでない。被験者への説明と同意があることをもって命にかかわる事態の発生があった場合の責任を回避すべきでない。
 同指針の第五条には「遺伝子治療臨床研究に使用される遺伝子その他の人に投与される物質については、医薬品の臨床試験の実施の基準に関する省令において求められる水準に達している施設において製造され、その品質、有効性及び安全性が確認されているものに限られるものとする」とある。
 しかし、レトロウイルスベクターもアデノウイルスベクターも有効性も安全性も確認されていないので、ここ第五条でいう「有効性及び安全性」とは「省令において求められる水準に達している施設において製造」された限定された項目についてのことであり、普通に我々が考える有効性や安全性のことではないのであろう。
 ベクターの大半はウイルスを使ったものであり、これらウイルスベクターは、04年2月19日施行の「遺伝子組換え生物等の使用等の規制による生物の多様性の確保に関する法律」(カルタへナ法)の第1種の「環境中への拡散を防止しないで行う使用」に該当する。遺伝子組換え体であるウイルスベクターを人に投与した場合、組換え体が体外に出て環境中に拡散するかもしれないということで、カルタへナ法の適用対象になり、該当する計画は主務大臣の事前承認と評価が必要とされるようになったものである。

■ いまこそ問い直すとき


 たしかに、人の細胞へ遺伝子を組み込もうとする手法を次々に試しているうちに、体内でいろいろな組換え体が出来て、思わぬ災害をもたらすことは薬剤多耐性菌の出現などの例からも十分に予想されることである。ただし、カルタへナ法で問題とされているのは環境への影響であり、組換え体を投与された人や取り込んでしまった人の安全性ではない。そういう人への安全性の視点からの計画の審査や評価が行われるわけではない。
 遺伝子治療臨床研究は、人に対する遺伝子組換え・遺伝子導入実験であるが、起きるかもしれない遺伝子組換え体の環境や人に対する健康影響は、国や研究者によってこれまで考慮されてこなかった。これからも真剣に考えられ防止対策が図られるとは思えない。市民は"治療"の言葉にまどわされ、人体を使った遺伝子組換え実験であるという視点から見てこなかったように思われる。今、遺伝子治療臨床実験を問い直し、評価を行い、何が必要な研究で、どういう研究は行うべきでないかを整理するべき時がきているのではないかと思われる。