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国際人権ひろば No.57(2004年09月発行号)
特集2 インド・スタディツアー Part3
印度勉学ノ旅
清水 良平 (しみず りょうへい) 初芝富田林高校2年
■ 期待を胸にいざインドへ
そこは小宇宙だった。少なくとも私にはそのように見えた。飛行機の中から首都デリーの夜景を見た印象だ。日本のようなまがまがしいネオンはなく、茶色い白熱灯がぽつりぽつりと輝いていた。素朴な美しさがそこにはあった。だが、インド人が先進国のような物質的に豊かな生活を望み、経済発展をめざしているのであれば、あと数十年もすればこの様な光景も見られなくなるのだろうな、と私はひとり複雑な思いでデリーの夜景をながめていた。
飛行機から降りて、ホテルに向かうバスの中から見たデリーの街には必要以上の電灯こそないものの、私の思っていた以上にずっと近代的で、夜であるにもかかわらず道は車で溢れていた。木があり、牛が寝そべり、野良犬がいて、人がたくさんいて、雑然とした感じでとても面白みのある街だと思った。
■ インドの人権事情
「人権」とはいったい何なのだろう。現在成されている「人権」の定義は人の自由平等の権利とか、人としての幸福に生きる権利とか、どれも複雑で難しい。それにそれらは時代や国によっても変化するものだと思う。そこで私は訪れた朝に感謝できる心が「人権」だと勝手に解釈している。なぜならもし私が「人権」を侵害されていたら朝にありがとうは言えないと思うからだ。では果たして現在のインドにおいてはどうなのだろうか。日程の二日目、連邦人権委員会(以下、委員会)を訪れた。
現在インドでは厳然とカースト制は存在し、さらに女性差別、イスラム教徒に対する差別なども今なお根強く残っている。それに加え売買春・児童労働、警察官や刑務所の職員による人権侵害などが大きな問題となっている。
それらの問題を受けて1993年、委員会は設立された。委員会では現在公務員の人権侵害に対する審査・調査、葉書やファックスそしてインターネットでも申立ができる人権侵害の救済窓口のシステム運営、人身売買・児童労働などの研究・調査などを行っている。こうした具体的な取り組みは今までのインドにおける人権事情を考えると大きな一歩であると思う。だがまだまだ人権問題の解決に向けて課題が多いようにも感じられた。
たとえば、地方の行政機関や国境付近に駐在する軍に対する人権尊重を進める働きかけの不活発さをあげることができる。また現在、主として人権侵害されるような立場におかれている人の内、識字や機器の関係でどれだけの人が救済窓口を利用できているのだろうかと疑問に思った。決して無駄ではないと思うけれども、現在のインドにおいてもっと有効な手だてが他にないものなのだろうか。
今回、委員会を訪れてまず感じたのは、インドでは「人権」という観念そのものがあまり根づいていないという事だった。それには宗教、民族・人種、貧富の格差など様々な背景があるのだろう。だから社会的に協力を得る事が困難なのに違いない。だが、社会的な協力なしに「人権」の問題の解決はまず不可能だと思う。インドの人権事情はまだまだ前途多難だ。それでもこれから一歩一歩着実に問題を解決し、笑顔で朝を迎えられる人が増えてくれることを願いたい。
■ 慈善活動って何?
現在インドでは警察の腐敗などの要因から、主に人権を守る法や制度が上手く機能していない。その様なこともあってNGOが人権、生活水準の向上など様々な分野の活動を進めている。日程の三日目に訪問したNRS(ナリ・ラクシャ・サミティ)注1もまたそんな組織のひとつであった。
NRSの活動の一例として、「売春問題」の解決に向けた活動が挙げられる。これは売春そのものを撲滅しようとするのではなく、例えば薬を無料で支給することで、売春をせざるを得ないその生活状況を改善するなどの活動である。その他にも女性を対象としたコンピュータや裁縫のトレーニングなど様々な活動を行っていた。
私はそんなNRSの活動の活発さ、柔軟さを素晴らしいと思う反面、なんとも言えない違和感のようなものを感じていた。それはきっとNRSの活動、「慈善活動」に対する微妙な価値観の違いからくるものなのだと思う。
そもそも「慈善活動」とはいったい何なのだろう。私には「慈善活動」というとどうしても資産家のステータスというイメージがある。事実NRSの代表者も資産家であった。そして「慈善活動」には資金が必要であるのもまた事実だ。だがそれだけが全てというわけではないのではないだろうか。でなければ援助を受ける立場の人たちは、金によって生かされているだけのように思える。
ここで少し引用をする。「必要なのは、財産ではない、お金ではありません。人びとが与えてくださるものではなく、そのものを与えようとさせる愛が必要です」。注2ここでマザー・テレサの説いている『愛』の意味を今の私には計り知ことは出来ない。ただ言葉にすると安っぽくなってしまう何か、あえて言葉に表すとするならば「哀れみではない愛おしさ」の様なものが「慈善活動」には必要なのではないのだろうか。また助けを必要とする人と自分との距離をどれだけ縮められるか、ということもまた「慈善活動」に必要な要素だと思う。だがその距離はゼロではいけない。それでは誰も助けることはできない。例えば食べるのに困っている人がいるからと言って自分もなにも食べない...なんて事をしているとどうだろう。人を助ける前に自分が倒れてしまう。そんなのは本末転倒だ。だから最低限の距離で最大限の援助をすることが真の「慈善活動」だと私は思っている。
■ インドのこれから
そこでは時がとてもゆっくり流れていた。少なくとも私にはそう感じられた。約1週間インドで過ごしてみた感想だ。日本のような慌しさは無く、牛も、犬も、人もそれぞれがそれぞれの時間を過ごしていた。胸の苦しくなるような懐かしさ、温かさがあった。紛れもなくそこは私にとって小宇宙だった。飛行機の中から首都デリーの夜景を見た印象そのままであった。人が生きることの素朴な美しさがあった。飛行機から見たデリーの夜景に見えた白熱灯そのままに、漆黒の闇に浮かぶ星のようにぽつりぽつりと一人ひとりが輝いている。そのなかに、マザー・テレサを始めとする、連邦人権委員会、その他のNGOなどの人々が恒星のように輝き、活動している人々もいる。長いカーストの歴史や宗教間対立などの問題がある中で、インドはきっと現在の先進国と全く違った形によって人権関係の問題解決の道を歩んでゆくのだと私は思う。
(注1) 1951年に設立された女性の保護とエンパワメントに関わるNGO「女性保護連盟」。
(注2) 沖守 弘著『マザー・テレサ:愛はかぎりなく』66ページより(小学館 1997年)