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国際人権ひろば No.58(2004年11月発行号)

肌で感じたアジア・太平洋

ながくてつらい坂道 -韓国のハンセン病快復者定着村を訪ねて-

岡本 恵里 (おかもと えり) 神戸女学院大学文学部3回生

なぜ韓国まで行くのか


  今年の夏も私は韓国を訪れた。目的は現地の村でワークキャンプと交流をする事である。しかも村といってもただの村ではなく、社会的に見ると少し特殊な村である。だが、どこが違うかといえばハンセン病の快復者が集まってできた村だという事だけだ。
  「そんなところまで行ってボランティアをなぜするのか、日本のことも考えろ」、とよく言われる。確かに今年は日本でも台風による水害などの為にボランティアをしようと思えばどこででもできたに違いない。ワークキャンプに参加するのはまだ2回目にしかならないが、なぜそうまでして私が韓国でキャンプに参加したかを自分でも見直す意味を込めつつ、報告したいと思う。

定着村という政策


  まず、韓国の定着村について少し説明しなければならないと思う。太平洋戦争が終わるまでは日本の統治下でハンセン病患者には隔離政策が取られていたが、朝鮮戦争の混乱を脱出して1960年代から政府の政策としてこの定着村作りが始まった。韓国全土に90ほどの定着村があり、主に畜産で生計を立てている。入植してから近隣の住民からの恐ろしい伝染病であるという偏見による差別や生活難で大変な苦労があったそうだ。それが今では全定着村で韓国で流通する卵の約3割を出荷していると言われるほどになっている。その背景には物の売り買いなどを通して近隣との関係がよくなったことや、畜産をするため村の外から入って来て定住する人のいる事があげられる。
  そして、日本のハンセン病療養所と決定的に違うのは、快復者が子どもや孫と一緒に暮らしているということだ。交流の活発さや子どもたちの声を聞いていると、日本の療養所の所内放送しか聞こえてこない静かさが異常に思えるほどだ。もちろん、後遺症が重度の人の多い村ではその限りでない。今回、私たちフレンズ・インターナショナル・ワーク・キャンプス(FIWC)というキャンプ団体(注1)が8月9日から20日まで2週間近くお世話になった韓国南部の永信村は、豚や鶏が鳴き、子どもが遊ぶ村だった。

現実


  私たちの目的は、ワークキャンプであり、そして交流。この二本柱を掲げている。
  交流には2つの方向がある。もちろん1つ目は村人との交流であり、もう1つは、私たちFIWCは毎年韓国の忠南大学の学生サークル、韓国助らい会(KWCH)(注2)と一緒にキャンプをしているが、その学生との交流というわけだ。
  その学生たちとともに、村の食堂や教会などの寝る場所を借りる代わりに労働力の提供というかたちで作業をするわけである。今年の主な作業は石垣積み・道路舗装だった。他に豚の糞掃除や草刈り等の作業もさせていただいた。
  村人たちが1955年に自分たちで村を拓いて約50年になる今では、高齢者が多く、修理は簡単にはできない。村人の高齢化、人口の減少という点では日本と同じなのだ。空き家が何軒もあったし、出会う人の半数以上がおじいさん・おばあさんという世代の人ばかりだった。しかも彼らのほとんどが快復者だが、何らかの後遺症などを持っている障害者である人が多い。
  しかし、この村にはそれだけではない問題があった。山を開墾して作られたので、細くて長い坂の村であるという事だ。これでは、雨が降ったとき道が川になって困るだけでなく、下の方に住む人たちは村の上の方にある教会や集会所に行くのも一苦労である。実際、足の悪いあるおばあさんは「集会所には行っていない」と言う。これでは、村人同士で交流するのも一苦労だろう。

子どもの存在


  それでも村のおじいさんやおばあさん達はとても陽気で気さくな人ばかりだった。畜産ができる、つまり重度の障害を持つ人が少ないので、何人かの村人とはつたない韓国語で話もしたし、茶話会という交流会ではおばさんと一緒にたんぽぽやアルプス一万尺といった手遊びで遊んだりもした。
  何が彼らを絶望からここまで立ち上がらせる事ができたのだろうか。
  私たちがキャンプ・インした翌日の8月10日夜に、家庭訪問というイベントがあった。それは日韓の学生が班になって村人の家庭を訪ね、お話を聞いてくるというものだ。私は今回のキャンプで新聞部長をしていたのだが、キャンプ新聞に特集として載せる為に皆が家庭訪問で聞いてきた話を集約したところ、私の訪問した家庭でもそうだったが、やはり宗教や子どもの存在の大きさを語る方が多かったそうだ。宗教によってしんどかった、大変だった事を忘れて今日まで生きてきた、と語っていた。これはこの部分だけを聞くとそれだけだが、裏返して考えてみると、宗教に頼らなければこの村もできなかったし、今日までその村人は生きてこられなかったということだ。それほどつらい過去を背負ってきたということを改めて思い知らされた。子どもたちの存在についても同様だ。ただ、子どもの学校については少し偏見が残っているという問題もある。村に小学生は現在4人いるが本校の父母の反対にあい、近くにある本校ではなくて少し離れた分校で授業を受けている、と村の代表の方は言っておられた。
  今年はこの永信村だけでなく、作業に使ったセメントを乾かす為の中休みの日に、2人の友人と共に小鹿島を訪ねてきた。この島にある現在では韓国で唯一の国立ハンセン病療養所は日本の統治時代に作られ、今では島には誰でも入れるようになっているほか、隔離政策や患者虐待の実態を資料館として保存している。島まで船でたったの10分ほど。はっきり言ってあっけない。しかし未だに船以外の交通手段を持たない。この短い距離を泳いで渡ろうとして失敗した人が過去には何人もいたそうだ。島内には教会がいくつかあるほか、神社のあとなども残っている。島内を歩くと病舎地帯や、近代的な設備の病院があった。しかし、はっきり言って、私たちのような訪問者以外の人の声が聞こえない。病舎地帯や病院を訪ねなかったからかも知れないが、生活感の大部分が感じられず、子どもの声などもってのほかであった。定着村での苦しいながらも明るい生活の素晴らしさを知った思いだった。

方向性というもの


  私たちが作業や交流会などのすべてのスケジュールを終え、韓国メンバーと共に村を去る日が来た時、ほとんどまともな韓国語が喋れない私たちに、村の子どもたちは泣いてくれた。世間話も通訳を通さないといけなかったが、村人たちも見送りに来てくれた。こんなに短い期間でも別れはつらい。村の代表の方は、「また来るといいよ」と言ってくれた。
  キャンプに参加した人はみんな言う事だが、初めは何の目的もなく参加した人も、この別れを経験する事によって何かが変わった、と言う。それは人それぞれなのだろうが、私が特に今年感じたのは、村人たちはながくてつらい坂道をあがってここまで来られたからこそ、今があり、私たちと会う事ができたのだ、という事だ。お互いもしかしたら会う事が一生無かったかもしれない確率の方がはるかに高い人たちとの出会い。ボランティアだからって人にいい事をした、と言う気持ちでなく、お互いにほんの少しでもいい影響になれば、つまり相手(村人)の為・周囲(定着村以外の周囲の村や私の周り)の為・そして自分の為にという3つの方向性。ほとんど体当たりの交流に言葉は一番大事なものではない。
  私たちFIWCは『らいがアジアをつなぐ』(注3)という言い方をする。日本人の私たちから韓国や中国のキャンパー、そしてアジア各地の快復者の方。できることより教えていただく事の方が大きい。そして過去の太平洋戦争の記憶から「大人は信用できないけどあなたたちなら信用できるよ」と言われた時、それ以上の関係に変えていけるのは私たちだと思えた。だからこそ、『明日会う人が自分を変えるかもしれない情熱』を苦しい中でも笑顔で生きる村人たちにも伝えたくて、私はまた韓国に行く。

(注1) Friends International Work Camps の略。http://www.mognet.org/
(注2) Korea Work Camp for Hansen's diseaseの略。http://kwcl.80port.net/
(注3) ここではあえて差別語の『らい(ハンセン病の事)』を使っているが、それは差別の歴史を忘れないためである。