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国際人権ひろば No.60(2005年03月発行号)

特集:スマトラ沖地震・津波の被害と復興の課題 Part3

スマトラ沖地震・津波後のインド・タミルナドゥ州の状況と復興の課題

荒川 共生 (あらかわ ともお) 特定非営利活動法人アジアボランティアセンター

  アジアボランティアセンター(以下、AVC)は、 アジアの人々とつながり、それぞれの課題解決に向けて草の根の国際協力活動を行っている。そのひとつに「マングローブ植林南南協力プロジェクト」がある。このプロジェクトはマングローブを保全するために、マレーシアのサラワク州の先住民族が、共通の課題を抱え実践経験を積んでいるインド、スリランカの漁民からマングローブの植林技術を学び、課題解決を目指している。AVCはインドとスリランカの現地NGOと協力関係を結びながらこのプロジェクトを実施してきた。2004年12月26日のインド洋大津波は、これら現地NGOの活動地域に大きな被害を与えた。津波直後から現地NGOより緊急救援の要請があり、それを受けて現地の状況とニーズの把握を行うために1月7日から10日までインドに、続いて12日までスリランカに赴いた。ここでは特にインドの状況について報告する。
  AVCのインドにおける現地協力NGOであるARP(Association for the Rural Poor)は、同国南東部のタミルナドゥ州のチェンナイに事務所を構え、ダリット(被差別カースト)の貧困農民のエンパワメントを目的として活動を展開している。このARPの主宰者であるフェリックス・スギルタラージさんに同行いただき、チェンナイおよびその郊外における被災状況と、避難キャンプを訪れた。

■どんな人たちが、どんな深刻な被害を受けているのか


 <チェンナイ近郊の被害状況>
  チェンナイの東にはベンガル湾に面した海岸が南北100km近く続いている。特にチェンナイ市街に面した海岸は、朝夕や休日は家族や友人と過ごす憩いの場としてにぎわう。津波が襲った12月26日は日曜日であったため犠牲者に子どもも多く含まれた。また津波が襲った7時過ぎはキリスト教会の早朝礼拝に人が集っている時間帯で、海岸沿いの教会では犠牲者が生じた。
  市街から近郊にかけての沿岸部に多くのスラムが形成されていたことも、被害を大きくした原因であった。きわめて海に近い沿岸部は人が住むには厳しい立地であり、行政は居住地としては不適格という位置付けをしている。そのためこうした場所に「不法占拠」が行われても当局は黙認してきた。これらのスラムが津波の直撃を受け、チェンナイでの犠牲者約1,000人のうち大半がこうしたスラムの住人である。
 <避難キャンプの様子>
  ベンガル湾に沿って南下する。チェンナイから約30kmにある避難キャンプに立ち寄った。ここでは47世帯が避難生活を送っていた。我々が到着したとき、あるNGOによって支援物資の配給が行われていた。政府から届いた支援物資も山積みになっている。 支援物資は主に米、調理道具、水である。米は1世帯あたり1ヵ月分として60kgが配られていた。被災者は支給されたビニールシートで砂地の上に直接テントを張っていた。テントの中はほとんど所持品はなく、わずかな食器、衣服のみを見ることができた。津波によって家財道具をはじめとする財産がほとんど流されたという。トイレは近くの砂浜に穴をほり、ヤシで編んだもので囲いをしているだけであった。こうした避難キャンプが5kmおきくらいに、海岸から少し離れた荒地に展開されていた。
  別の避難キャンプは165世帯が避難生活を送っていた。テントを張るためのシートの色がばらばらである事から、まだ十分に支援物資が届いていないことが推測できた。なかにはサリーで天幕を張っている世帯もあった。その後、南下しながらいくつかの避難キャンプを訪れる。このあたりはチェンナイから車でアプローチが比較的容易なこともあり、複数のNGOが支援に入っていた。政府からの米などの支給も行き渡っている。すでに緊急救援の段階からは抜け出しているかに見えた。
 <被災した漁村の様子>
  Meyoor Kuppanという被災漁村に立ち寄る。この漁村では158の家が津波によってさらわれ、村の原形をとどめていない。柱や床のコンクリートが残っており、そこが10日前までは集落であったことがかろうじて判断できる。この村では9名が死亡、うち2名が子どもであった。まだ数人の安否不明者がいる。50艘近い漁船が流失、または破壊された。魚網も大半が流失した。漁船は多くがグラスファイバー製で、少しの亀裂が入るだけで修理が必要になる。1艘あたり75,000ルピー(約195,000円)が必要で、さらに船外機を失った場合、1台につき35,000ルピー(約91,000円)の損害になる。
  漁民は漁業に依存して暮らしている。つまり漁船や網、船外機を失うことは、生活の基盤を失うということである。被災漁村の復興を実現するためには、安心して住める家と、生活を成り立たせ自立していくための「生活の道具」である漁業機材の支援が必要であると感じた。
 <被災者の抱える課題>
  いくつかの被災漁村を訪ねたが、すべてに共通することがある。
  (1)被災を免れた漁民でも、夜になると家では寝ないで、高台や村の広場、幹線道路沿いに作った簡単なシェルターで夜を明かす。夜寝ている間に津波に襲われることへの不安感がまだ消えていないのである。
  (2)津波以降、漁民は極力、浜辺に行くことを避けている。漁業はもとより、海に接する仕事や活動はほとんど行われていない。津波に対する恐怖心、不安感が癒えていないことと、家や家族や友人を失い、生活の道具を失ったショックからくる喪失感、無気力感が、復興や前向きな活動への意欲を奪っているのである。この状況を象徴しているかのように、被災者に支給された救援一時金が酒代に使われ、昼間から飲酒をする漁民をみかけた。津波によるPTSD(心的外傷後ストレス障害)に対するケアも、今後の中・長期的な復興支援には欠かせない。
  (3)古着の山。被災した村や避難キャンプでは必ずといっていいほど、古着が山となって捨てられていた。漁民は女性はサリー、男性はルンギという腰巻きが日常的な衣服であるが、援助物資として届く古着は、町に暮らす人たちから集められたもので洋服が多く、漁民には「着心地の悪い」ものなのである。さらに古着の大半が汚れていたりして、使えるのは1割程度だという。実際被災漁民からは「新しいものを」「服ではなく布がほしい」といった声が多かった。こうした現場のニーズを把握せずに運び込まれる古着が捨てられているのである。

■インドの被災状況を視察して


  インド政府の公式発表(1月9日付'The Hindu'紙)では津波の被害を受けた漁村はタミルナドゥ州で159村にのぼる。7,951人の犠牲者があり、大半が漁民である。政府は津波被災後、外国からの緊急救援はいらないと宣言し、自力での救援活動を開始した。そのこともあって避難キャンプや被災漁村には早くから政府による支援物資が届けられていた。しかし1世帯あたり60kgの米は十分ではない。また配られた米は劣悪な古米で虫がわき、においがするという不満を訴える人が多かった。
  しかしインド政府は中・長期的な復興に関しては海外からの支援を受ける方針である。また復興資金創出のため、復興に関する活動に対して寄付を行った場合の税制優遇を行う「津波災害復興税」という特措法の検討も行われている。
  幹線道路を車で走っていると、村の存在を示す手書きの看板をよく目にした。その看板には救援を訴える内容が書かれている。道路から見える被災漁村や避難キャンプには、様々な援助が入っているが、奥まった場所にある被災漁村や、避難キャンプには十分な援助の手が届いていなかった。この巨大災害に国際社会はすばやく反応し、各国が支援を表明し、また市民レベルでも多くの募金や支援が寄せられている。今後は集まった支援をどのように分配していくのかが大きな課題となってくる。
  現地を視察して感じたのは、チェンナイの沿岸部のスラムに暮らす人々や、支援者の目が届きにくい僻地の貧困漁村など、ダリットを含むより社会的に弱い立場にある人々ほど被害も大きく、また復興の主流から取り残されているということである。こうした人々の状況を把握しニーズを汲み取っていくことと、集まった支援の分配を仲介するコーディネーション的な役割を担う組織の必要性を感じた。長年草の根の人々と共に協働してきた現地のNGOにはこれらの細やかなニーズの把握が可能であり、なによりも信頼関係を築いてきた経験がある。より有効で効率的な復興のためには、国際的な協力体制のもとに実施される大きな枠組みの復興計画と、草の根の視点に立ちながらニーズをくみ上げ、柔軟に対応していく細やかなアプローチの両立が求められている。