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国際人権ひろば No.61(2005年05月発行号)
肌で感じたアジア・太平洋
除隊兵士を通じてみたアフガニスタン
山科 真澄 (やましな ますみ) 特定非営利活動法人 日本紛争予防センター・アフガニスタン担当
アフガニスタンに着任して
2004年7月から日本紛争予防センター(以下JCCP)でアフガニスタン担当として本部勤務をしていた私は、念願かなって同年12月25日からプログラムオフィサーとして、アフガニスタンの首都カブールに派遣された。担当するプロジェクトは「除隊兵士の社会復帰支援事業」である。このプロジェクトは除隊兵士たちを社会に戻すことで、アフガニスタンの治安の安定と、発展に寄与することを目的としている。
私がアフガニスタン着任前に抱いていたイメージは多くの人が抱くような、「テロリズム」「ウサマ・ビン・ラディン」「タリバン」「抑圧される女性」というものであった。そのため、念願のアフガニスタン赴任とはいえ、出発前には、もしかしたら日本に帰ってくることはできないのではないか? アフガニスタン人の男性職員は私と一緒に仕事をしてくれるだろうか? そもそも何を着ればいいのだろうか? など大小様々な不安が胸をよぎっていた。
そのような思いを抱きながらクリスマスの日にアフガニスタンに出発した私は、翌26日にドバイ空港を経由し、国連機でカブールへと出発した。機上からみるアフガニスタンは、これまで私が行ったどの国とも違う一面ただ茶色の世界が広がっていた。到着したカブール空港で、国連機から降りたほかの女性を見習い、スカーフをかぶり入国した。運よくJCCPのドライバーにすぐに会うことができた。当時ダリ語がまったくわからなかった私はただ彼に促され車に乗り一路事務所へと向かった。その途中生まれて初めて車にカラシニコフ銃を突きつけられ、涙が出そうになったのを今でもよく覚えている。
進まない治安回復
その頃のアフガニスタンは治安が良いとは決して言えない状態であった。大統領選挙以来続いている状況が急に悪化したというわけではなかったが、国連機のハイジャック計画、日本人女性の拉致計画、カブール市内での自爆テロ予告など物騒な話題が尽きなかった。しかし、実際はカブールの治安は落ち着いていた。外国人を狙った一般犯罪は頻繁に起こっていたがテロと呼ばれるようなものはほとんどなかった。様々な原因が指摘されていたが、7年ぶりの大雪とアフガニスタン史上初といわれる寒波のため行動が制限されているためではないか、という理由を多くの場所で耳にした。ANSO(Afghanistan NGO Security Office)の安全対策の会議でもこの寒さが治安の安定の要因となっていると指摘されていた。そのため、今年の冬は水道管が破裂する、水が全くでない、電気が供給されない、道路や車が凍結して外出できないなどの問題はあったが、比較的落ち着いた状態で生活をすることができた。その一方、寒さで多くの方が凍死したのも事実である。
しかし、3月に入り暖かくなり、また議会選挙の日程が9月に決定されたことから治安が悪化してきているように感じる。まず、3月7日にカブール市内で英国人援助関係者が車両にて移動中2台の車両に追尾され、銃撃・殺害されるという事件が発生した。さらに、3月17日にはカンダハール市内のカンダハール・ヘラート幹線道路において爆弾が爆発するという事件も起こった。またカンダハールでは今年に入ってから児童誘拐事件が頻発していたが、3月7日にそれに対する具体的対応を求めるデモが行われ一部参加者が暴徒化するという事件も起きている。
これらに加え、3月に入ってからは路上で騒ぐ人の声などが夜中まで聞こえるようになり、また国際治安支援部隊(ISAF)のヘリコプターがカブール市内上空を頻繁に旋回するようになり、これまでとは違う空気にカブール市内が包まれているように感じる。また、カブール市内の主要建物付近では警備が強化されているようだ。
復興と除隊兵士の未来を信じて
アフガニスタンで私が従事しているのは、冒頭で述べたとおり「除隊兵士の社会復帰支援事業」である。79年のソ連軍の侵攻以来アフガニスタンでは長きに渡り内戦が繰り返され、軍閥が群雄割拠の状態になっており、軍閥間での武力衝突が日常的に発生していた。
アフガニスタンの復興を成し遂げるためにはまず何よりも治安を回復することが急務であった。そのためアフガニスタンでは「武装解除、動員解除そして社会復帰(DDR: Disarmament, Demobilization, and Reintegration)」プロセスが進められている。具体的には、武装解除、動員解除した後、新設された国軍への入隊や職業訓練を通じて、除隊した兵士たちを社会に再統合していくまでのプロセスを意味する。JCCPの社会復帰支援事業は日本政府、国連を中心に進められているこのDDRプロセスを直接担うものではないが、元兵士を直接の受益者として、彼らの社会への復帰を目標として実施しており、DDRプロセスのRの部分に該当するプロジェクトである。
JCCPではカブール州カラコン郡、ミルパチャク郡において90人の除隊兵士を対象に、プロジェクト終了後の社会復帰を目指し、金属加工、木材加工の職業訓練のみならず、識字教育を含む基礎教育、平和教育、そしてコミュニティー・アクティビティーの総合的なカリキュラムを6カ月間に渡り実施している。半生を戦場で過ごしてきた彼らは、教育・就業の機会を逸しただけではなく、戦闘によるトラウマを抱えている場合が非常に多い。彼らを真の意味で社会復帰させるためには、技術を習得するだけでは不可能であり、まず彼ら自身のトラウマを克服し、また彼ら自身の「平和」を見つけ、自分や家族の将来を考えて行動できるような状況にまでもっていかなければならない。さらに、コミュニティーにおいて彼らをその一員として認めてもらうことも重要である。そのためにこのような総合的なカリキュラムを用意している。
中でも平和教育とコミュニティー・アクティビティーはこのプロジェクトの核をなすものである。平和教育では、インストラクターとの対話を通じてまたグループ作業を通じて「平和」について学んでいく。またその実践の場として、コミュニティー・アクティビティーを実施している。これは毎週木曜日の午後に活動場所をコミュニティーに開放し、彼らが運んできた壊れた日用品(たとえば一輪車など)などを無料で修理している。この活動を通じて、除隊兵士に対するコミュニティーの認識を変えることができ、またコミュニティーへプロジェクトを還元することもできる。
私が初めて彼らに会ったのはプロジェクトに参加する訓練生を選考するための面接のときであった。このとき「平和教育に興味があるか?」という質問に対して「興味がある。平和とは何かを知りたいから」と全員が答えていた。これは私にとって非常に衝撃的な答であったが、半生を戦争状態で過ごしてきた彼らにとっては平和というのはそれだけ遠い世界の概念であったのだろう。
しかしプロジェクトを開始して3カ月以上たった現在彼らは着実に変わってきている。まず表情が出てきた。最初彼らは一様に暗い顔をし、笑っている姿を見ることはなかった。今プロジェクト現場へ行くと真剣な顔で訓練を受け、また楽しそうに笑顔で挨拶をしてくれる彼らの姿がある。また、明日という日を思い描くことができなかった彼らだが、今はアフガニスタンの将来を真剣に語るようになっている。「3年後にはアフガニスタン人の力だけでこの国を立て直したい。ほかに困っている国があったら今度は自分たちが助けに行きたい」と言った彼らの言葉は印象的だ。また、コミュニティー・アクティビティーでは、自分たちの習った技術が役に立つということが嬉しいらしく生き生きとして修理に励んでいる彼らの姿を見ることができる。また彼ら自身が、コミュニティー・アクティビティーのアイデアを私に伝えてくれることもある。
このように彼らは精神的にはプロジェクトを始める前とは格段に変わってきた。また技術も着実に身に着けている。今の彼らならば社会に戻って、きちんと仕事をし、家族と平和に暮らすことができるだろう。しかし、彼らを受け入れていく社会には大きな需要はない。コミュニティーの経済は未成熟であり、その中での需要だけを望むことはできない。そのためには、コミュニティー以外の需要も開拓する必要がある。また、このプロジェクトを私たちがずっと続けることはできない。したがって、彼らが自分たちで続けていけるような支援をしていかなければならない。
このような課題はあるが、現在訓練生たちは着実に変化を遂げ、社会復帰への準備を進めている。アフガニスタンにはまだまだ多くの問題があり、短期間での復興は非常に困難に思われる。しかし、このように自分たちの国を良くしようと努力している人々がいる限り、必ず復興を成し遂げ、平和なアフガニスタンを作ることができると信じている。