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国際人権ひろば No.61(2005年05月発行号)
アジア・太平洋の窓【Part2】
パレスチナ自治区・ガザで暮らす人々のいま
藤原 亮司 (ふじわら りょうじ) フォトジャーナリスト
閉ざされたパレスチナ
2003年3月に始まったイラク戦争。連日のようにメディアを賑わせるイラク報道の陰に隠れるかのように、パレスチナで続いている戦争。その事態の大きさにもかかわらず、メディアで大きく取り上げられることは少なかった。
以前の取材で知り合ったガザ地区に住むパレスチナ人からは、時折悲痛なEメールが届いた。「こっちではひどいことが起きている。いつお前はガザに戻ってくるんだ?」。彼のメールには、何度もそう書かれていた。新聞やインターネットで、パレスチナでの戦争に関する短い記事を見つけるたびに、私は焦燥感に駆られた。
取材資金の問題もあった。しかし、もうひとつ取材に行けない理由があった。イスラエル政府が、パレスチナ自治区のひとつであるガザ地区への外国人の立ち入りを、厳しく制限していたからだ。以前は、外国人はパスポートさえあれば、観光客であれ、ジャーナリストであれ、ガザへ入ることは可能だった。しかし、イスラエル軍のガザ侵攻が激しさを増していった頃から、国連職員やごく一部のNGO、イスラエル政府発行のプレスカードを取得したジャーナリスト以外の立ち入りは、事実上不可能になっていた。
その時期、パレスチナの戦争についての報道が少なかったのも、ガザに入る難しさが関係していたのだろう。継続的にこの地を取材してきた何人ものフリー・ジャーナリストが、ガザに入ることができずに取材を諦めていた。そのプレスカードを取得することは、組織の後ろ盾を持たないフリーランサーにとっては、非常に難しいものだったからだ。
2005年1月になり、ようやくプレスカードを手に入れた私は、イスラエルからガザに入る唯一の入口、エレズ検問所にいた。イスラエル軍の管理する「出入国管理事務所」でパスポートにスタンプを押され、パレスチナ自治区へ「入国」した。前回の取材から、3年が経っていた。
エジプト国境の町ラファ
ガザ地区最南端にある町、ラファ。エジプトと国境を接するこの町では、国境沿いの家屋は、「イスラエルの安全上の理由」からことごとく破壊され、幅100メートルを超える瓦礫の更地が延々と続いていた。
3年前にも、国境沿いの家屋の破壊は行われていた。しかし、ここまで破壊の規模が広がったのは、イスラエル軍が大規模な侵攻を行った2004年のことだという。同年5月の大侵攻のときだけでも、3,000人を超える人々が家屋を失い、その後も数十軒単位での破壊が次々と行われた。
「前は狭い路地に囲まれた家だったのに、今じゃ国境までの家は一軒もなくなってしまった」。
ラファのサラハディーン地区に住むナジールさんは言う。建物の半分を壊された家の前の瓦礫に座り込み、まだ小さな娘を抱いて国境を見つめていた。
「去年の5月、イスラエル軍から突然立ち退きを命じられた。今夜、この辺り一帯の家をすべて取り壊すと。理由はテロリストの隠れ家になっているからだというが、とんでもない言いがかりだ」。
しかし、反論することも許されず、立ち退きまでわずか半日しか与えられないまま、イスラエル軍の戦車砲とブルドーザーによって、辺りはどんどん破壊されていった。彼の家は半分ほど壊されたところでブルドーザーは引き上げていき、何とか全壊は逃れたがとても住める状態ではない。
「それでも今も、壊されずに残ったキッチンと居間に、家族8人で暮らしている。頼れるほど豊かな親戚もなく、仕事もない。自治政府は何も支援してはくれない。他にどうすることもできない」。
国境付近に建つイスラエル軍の監視ポストからは、昼夜を問わずランダムな狙撃がある。今回の取材中にも幼い少女が撃たれ、負傷した。こんなところに娘と座っていて大丈夫なのか、という私の問いかけにも彼は、力なく笑って答えるだけだった。
ただやり過ごすだけの毎日
「本当に平和になるなんて誰も思ってないさ。停戦なんてこれまでに何度あったことか。そのたびに期待はずれに終わったんだ」。
ラファに住むムハンマド氏は、パレスチナ自治政府のアッバス議長と、過激派と呼ばれる組織、ハマスやイスラミック・ジハードとの間で協議されている、イスラエルとの停戦交渉の行方について、冷めた調子でそう話した。彼はウクライナの大学で航空機整備を学び、1998年に完成したガザ空港で働いていた。しかし空港はイスラエル軍によって破壊され、閉鎖に追い込まれた。彼は職を失い、その後はごくたまにありつく日雇いの建設工事の仕事だけが、唯一の収入源だ。
「毎晩のように、仲間のエンジニアたちと集まる。いつか、自分たちの技術がパレスチナの役に立つようにと、最初は勉強会をしていたんだ。せっかくの知識を忘れないようにね。でも今では、ただ集まって愚痴をこぼすだけの集会になってしまった」。
彼らは毎晩、ラファ・エンジニア協会という看板が掲げられたビルの一室に集まる。そこでテレビを見たり、日雇い労働の情報交換をする。そして、一台だけ置かれた卓球台を囲み、気晴らしのピンポンに熱くなる。その場に15人以上いた失業中のエンジニアのほとんどが、外国の大学への留学経験を持つ者ばかりだ。しかし、失業率が80%近いといわれ、ガザから出ることもできない今、彼らが働く場所はどこにもない。
停戦合意の下で
パレスチナ側の一方的停戦を受けて、2月にはイスラエルのシャロン首相とパレスチナ自治政府のアッバス議長との間で停戦合意が交わされた。そして、7月から始まるといわれている、ガザ地区のユダヤ人入植地の引きあげ。それだけを見れば、いくらか好転の兆しが訪れたかのように見える。
しかし、散発的とはいえ停戦後も続く、イスラエル軍によるパレスチナ人狙撃と、過激派の報復攻撃。ガザの入植地引きあげの他に、具体的な改善策や和平への展望が示されていない今回の停戦は、いつ崩れるかもしれない不安定さが伴う。
また、腐敗体質が染み付いた自治政府への不満も大きい。外国やアラブの同胞からの支援を搾取し続けてきた自治政府の高官たち。占領政策を続けるイスラエルと、なんら生活改善の具体策も示さず、民衆をないがしろにしてきた自治政府が取り決めた停戦合意を、パレスチナ人は厭戦気分から歓迎はしつつも、冷ややかに見つめている。
新しく議長に選ばれたアッバス氏への民衆の期待は大きいが、それは自治政府をいかに改革してくれるかという期待だ。
「アッバス議長に期待はしているが、自治政府を信頼しているわけではない」。
ガザに住む、元ハマスのメンバーだった男性は言った。
「停戦がいつまで続くかは、イスラエルとの問題じゃない。アッバス議長が、亡くなった前アラファト議長のブレーンたちをどう切っていくか、それ次第だ。平和になったからといって仕事もなく、将来のことも考えられない暮らしの中で、どうやって幸せになれる? 何も変わらないのなら新たな不満が生まれるだけだ。そして、ガザにユダヤ人がいなくなったあとは、その不満が向けられるのは自治政府になるだろう」。
パレスチナ人が抱える問題は、戦闘や家屋破壊などの「目に見える」占領政策だけではない。分離壁で囲われた小さな土地の中で、自分の将来を自分で考えることができない、抑圧という日常のなかで、彼らは暮らしている。
ラファのエンジニア協会で会った男性が言った言葉が、占領という抑圧下で暮らす彼らの閉塞感を物語っているようで印象的だった。
「仮に停戦が続き、ガザからユダヤ人入植地がなくなったところでどうなる? 危険な監獄が、安全な監獄に変わるだけのことじゃないか」。
不完全に与えられた平和の中で閉塞感だけが続いていくなら、パレスチナ問題に真の前進はない。約4年半の激しい戦いを経て、ようやく実現した今回の停戦。それが本物の和平に繋がっていくために、アッバス議長による自治政府の改革に期待したい。そしてイスラエルが今度こそ、本気で和平実現へのテーブルに着くことを強く願っている。