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国際人権ひろば No.61(2005年05月発行号)
人権の潮流
国連子どもの権利委員会の勧告を無視した少年法「改正」法案
佐々木 光明 (ささき みつあき) 神戸学院大学法学部教授
改正法案と問題の焦点
今国会、2005年3月に少年法「改正」法案が上程され、少年法の性格が大きく変わろうとしている。
改正提案の要点は、(1)触法少年(14歳未満で罪を犯した少年)、ぐ犯少年(罪を犯すおそれのある少年)に対して、これまで児童相談所(以下、児相)が主体で行ってきた「調査」につき、警察が任意または強制的に「調査」できるものとする。また、重大触法少年事件については原則的に児相から家庭裁判所(以下、家裁)に送致される。(2)これまで収容できなかった14歳未満の少年につき、少年院に収容可能にする。(3)保護観察処分中の少年が遵守事項を守らない場合、保護観察所の申請で家裁は少年院等に送致可能にする。(4)国選付添人制度の導入。
これまで、刑法で刑事責任年齢(刑罰の意義・効果を確認できる年齢)を14歳以上としていることから、14歳未満の子どもの非行に対しては福祉的、教育的な観点から扱うことを原則としてきた。今回の改正で、ぐ犯少年を含めて、「捜査」機関である警察が「調査」権をもつことになる。また、施設処遇については、家族的対応を主体として子どもの抱えた問題に向き合ってきた福祉施設ではなく、矯正教育の少年院処遇が可能となる。保護観察については、施設収容の威嚇をしながら社会の中でのやり直しになる。
法改正によって、我々は、子どもに関わってどんな社会を作ろうとしているのだろうか。
少年法の理念と子どもの権利条約
少年法は、問題を抱えた子ども(非行少年)に対して日本社会がどのような姿勢で臨むのかを制度とともに示した法律である。いわば、学校や家庭などのいわゆる社会的生活からこぼれた子どもへの教育指針を示した法ともいえる。「刑罰」で対処するのではなく、教育・福祉的な観点からアプローチすることを基本としてきた。そしてその運用は、戦後新たに設置された家裁が担った。子どもや家庭の問題を司法、すなわち権利保障の枠組みで捉えることが、ひいては社会の安全や発展に繋がることを示したのである。憲法の理念や教育基本法と密接であることがわかる。
非行少年は、事実調査(捜査)、審判、処遇、その一連の手続きのもとで、自分のしたことや被害者のことを自覚し、真摯に振り返り反省することを求められることになる。刑罰の可能性もある。厳しく自分と向き合うことは、子ども自身にとってきつくもある。その少年司法過程全体の取り組みを「保護主義」といってきた。決して、単に守られるという意味ではない。そこには、多くの大人=社会が民間の人々も含めて、「再非行の防止」に向けてそれぞれが取り組みを重ねている。
子どもが事実を語り、謝罪の言葉を見つけ出し、やり直しの機会をつくっていくには、時間とそこに関わる人々の子どもとの向き合い方が重要になる。少年法はその指針を示すものであった。そして、その理念を、いっそう具体的で実質的なものにするのが、子どもの権利条約や非行防止・少年司法運営に関わる国際準則である。それらは、子どもの尊厳を尊重し適正な権利保障をすることによって、また、子どもを成長発達の主体として捉え、教育的、福祉的観点から関わることによって、当該少年が事実に向き合い非行を見つめ克服する契機をつくっていくことを求めている。
一連の少年法「改正」がもたらしたもの
しかし、少年事件の凶悪化、増加の声に押されるように、2000年に少年法は大きく改正された(詳細に検討すると殺人や強盗致死等は決して増加しておらず、むしろ少年事件特有の事案への対処が必要であった)。子どもの抱えた問題性より、非行の結果の重大性に焦点をあて、「原則逆送制度」、すなわち、ある一定の非行結果については原則的に刑事裁判に回す制度を新たに作った。初めて、検察官の関与も認めた。厳罰化、必罰化を進める改正だった。刑罰も教育であり、子どもにも責任を問うことで、規範意識を持たせる必要があると立法提案者は論じたが、愛国心と規範意識を強調した教育基本法改正の露払いでもあった。一方で、子どもが自分の権利を自覚できる機会は不十分なままだ。
00年改正前後から、司法過程における子どもの実像を知ろうとする姿勢は消え、立法提案の科学的根拠を検証する姿勢も少年事件凶悪化論にかき消され、厳罰化のいっそうの進行により社会には「威嚇力(脅し)」によって問題を解決していこうとする指向性が高まりつつある。今回の触法少年を中心とする改正法案も、14歳未満の子どもであっても、福祉ではなく司法(治安問題)が対処することによって、「社会の納得と安心」を得ようとするものだといえる。
実は、我々の社会は、子どもの失敗(非行)に対して、その子ども自身の資質の問題として捉え、責任を問おうとしている。子どもの抱えた問題の背景、その教育・家庭環境等への関心は薄れ、非行からの立ち直りとそれを支えようとする社会の意識も低下してきている。
子どもの権利委員会の勧告
そうしたなか、条約実施状況を監視する「子どもの権利委員会」は、日本政府に対し98年と04年に「総括所見」を示した。第1回では、子どもの身柄拘束のあり方について、代替的な方法をさぐるべきだとして代用監獄の見直しを指摘し、その改革の状況の報告を次回への課題とした。しかし、04年の審査にあたっては、日本政府は前回の勧告をほとんど考慮することなく政府報告を行っている。それをふまえて、04年の第2回勧告では、00年の改正少年法の厳罰化・必罰化について、刑罰対象年齢の引き下げや身柄拘束期間が長くなったことを懸念し、条約と国際準則が求める内容に逆行するものだと断じた。少年の刑事手続きについても、「子どもにふさわしい手続き」になっていないと指摘している。なお、手続きのあらゆる段階で子どもへの支援、法的援助とそれへのアクセスの保障をもとめてもいる。勧告は、法的拘束力を持つものではないが、条約締約国として道義的責務と国際社会の中での信頼獲得のために、尊重されるべきものである。また、日本の少年司法の権利保障を検証し、理念を確認する機会と位置づけるべきだろう。勧告の内容は、立法に反映されるべきだと指摘されていることを、政府はどう考えているのだろうか。
子どもの権利条約から見た問題
子どもは、目の前の大人に依存的で迎合的だったりする。非行の事実を「ことばにする」ことが、子どもにとって容易でないことも多い。誤ったことが引き出されることもままある。誰が、どこで、どのように接するのかが重要になる。そうしたことを考えると、警察は捜査、すなわち事件を立件していく観点から「調査」をすることになり、子どもの特性を考慮し調査する機関として構造的に適正さを欠いているように思われる。また、なにより、ぐ犯も「調査」対象に含めたことで、子どもの非行問題に対する警察の「裁量権」が極めて大きくなる。社会の「力への依存」の進行を含めて、問題点を丁寧に探り、議論していく必要があろう。14歳未満の子どもの少年院収容も、児童自立支援施設処遇の限界がどこにあり、少年院のほうがすぐれている根拠は何一つ示されていない。
児相の児童福祉司、家裁調査官、付添人、少年院の職員、触法少年に関わる人々が、この法案によって子どもと関わる意欲をいっそう引き出せるものになるだろうか。逆に、福祉的・教育的対応をする組織と人間から、意欲と関心を奪いかねないのではないだろうか。
子どもの権利保障論は、こうした社会的議論を積み上げることによって、まさにその厚みを増すことになる。国連勧告を無視した少年法「改正」法案を今一度、誰のために何のために変えようとするのか考えることも必要だろう。絶望の低年齢化を進めないためにも。