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国際人権ひろば No.62(2005年07月発行号)
アジア・太平洋の窓
プノンペンの今~急増するスラムと人々の取り組み
手束 耕治 (てづか こうじ) (社)シャンティ国際ボランティア会(SVA)プノンペン事務所
カンボジアのスラム
最近では大きな事件もなく、ニュースとして日本で取り上げられることもほとんどなくなったカンボジアですが、2005年6月16日にカンボジア北西部のシェムレアップで起こったインターナショナルスクール幼稚園で武装グループが一時立てこもり、カナダ人園児1人を殺害した事件で、再び世間の注目を浴びました。この人質事件は、警官隊が突入して解決しましたが、犯人グループは警察の取り調べに対し「金目当ての犯行だった」と動機を明らかにしました。
世界遺産のアンコール・ワットを訪れる日本人観光客は年々増加し、日本の自衛隊も参加した国連カンボジア暫定行政機構(UNTAC)による1993年の国民総選挙の実施、新政府の発足、その後の巨額な海外からの援助と投資によって平和な国作りが順調に進んでいるように外からは見えるかもしれません。しかしながらその一方で、都市と地方の格差は拡がり、貧富の格差は80年代の社会主義の時代に比べて天文学的な数字に上っています。また、政府内では汚職が蔓延し、汚職撲滅や行政改革などの「グッド・ガバナンス」の促進はカンボジア政府が緊急に取り組まなければならない最重要課題となっています。
カンボジアにおける貧困層の割合は、世界銀行の2000年の統計によると総人口約1,300万人の36%に上り、そのうち90%が地方の農村です。小学校への純就学率
(注)は90%までに達しましたが、6年を卒業できるのは入学児童の50%以下であり、中学校の就学率は21.3%、高校はわずか8.1%にすぎません。また、乳児死亡率も1,000人中95人と非常に高く、ほとんど改善されていないのが現状です。一人当たりの国内総生産(GDP)は300ドル、平均寿命は54歳。いずれも地方の開発の遅れ、貧困層の生活向上が進んでいないのが原因といわれています。
そして貧しい地方から、仕事を求め、あるいは災害などで生活ができなくなって都市に流入してくる人々が増えています。2003年の調査によると首都プノンペンのスラムは569ヵ所あり、そこに62,249世帯が住んでいます。ちなみに、1997年は379ヵ所、30,100世帯でしたから、6年間で倍以上に増えたことになります。さらに2005年現在では700ヵ所を超え、約20万人がスラムの居住者だと言われています。これは人口100万人のプノンペンの20%を占めることとなり、都市貧困層の問題はその居住環境の悪さと共に、近年の都市開発に伴う住民移転問題の多発など大きな社会問題となりつつあります。
さらにこれらの問題は首都プノンペンに限らず、観光開発に沸くアンコール・ワットのあるシェムレアップやタイとの国境貿易の拠点であるポイペトなどの地方都市でも起こっています。スラム問題に対して、カンボジア政府、国連機関、NGOは協力して取り組んでいこうとしていますが、限られた予算での地方も含む膨大な貧困層の問題解決や法律の未整備などの問題もあって、急増するスラムに対策がとても追いついていない状況です。
バサック・スラムへの教育支援
このような現状のなか、これまで15年にわたりカンボジア国内で教育支援を行ってきたSVA(シャンティ国際ボランティア会)は、バンコクのスラムでの活動の経験を生かし、2005年1月からプノンペン市内にある最大のスラムの一つであるバサック・スラムへの教育支援を始めました。バサック開発コミュニティー(通称、バサック・スラム)はプノンペン市内の東を南北に流れるバサック河(メコン河はプノンペンで、東に流れるメコン河と南に流れるバサック河に分かれている)の西岸に広がる人口約5,000人(6地区よりなる)のスラムです。その成立ですが、1993年のUNTACによる新政府成立のころから、各地方の貧困層(特に東部地域のスヴァイリエン州、プレイベン州の出身者が多い)の流入が始まり、スラムが形成され始めたのです。
また、バサック・スラムは道を隔ててそのすぐ西に広がるダイ・クラホーム地区(通称、ブディング・スラム。ポルポト政権崩壊後の1979年より地方から流入が始まり、2001年9月の大火で4,000人が政府によってプノンペン市郊外に移転。現在人口約6,000人)とあわせて、プノンペン市内で最大のスラム地域を形成しています。
バサック・スラムも2001年11月に大火災が起き、ほとんどの家屋が焼失しましたが、住民はバラックを建てて生活を続けています。政府が地域一帯を民間に払い下げ、将来的に住民の移転を考えているため、大火以降の住民の流入は基本的には認められておらず、恒久的な建物(鉄筋、レンガ作り、頑丈な木造)の建設は許可されていないので、家屋は廃材のバラックか草ぶきの小屋がほとんどです。地域の衛生環境も劣悪であり、上下水道はほとんどなく、子どもたちの半数は何らかの病気にかかっています。
また、失業率は50%に上り、仕事のある男性も日雇い労働者やシクロ(自転車タクシー)の運転手など日銭を稼ぐ仕事しかなく、女性は路上や屋台での物売りをし、子どもたちは町でごみ拾いをして1日1ドルを稼ぐのが精一杯の状況です。病気になるとたちどころに生活できなくなる最貧困の生活レベルです。仕事がないので日中から賭け事をしている大人も多く、子どもたちにとっては望ましい環境からは程遠いといえるでしょう。
子どもの就学状況を見てみても、就学年齢の子どもの就学率が90%を越えるプノンペン市内において、この地域は40%以下といわれています。この数字は僻地の就学率に等しく、子どもが教育を受ける権利において著しく不平等な状況下に置かれていると言えるでしょう。その原因としては住民の生活状況の悪さだけでなく、このスラム地域に対し、政府はもとより、NGOなども含めて外部からの教育支援がこれまでほとんどなされてこなかったことも大きな原因の一つです。
住民自身の手でコミュニティー・スクールを運営
しかしながら、このような教育状況を何とか打開しようと、住民自身の手でコミュニティー・スクールが立ち上がりました。2003年末、「生まれてから一度も学校に通ったことのないスラムの子どもたちに何とか教育の機会を与えたい」との住民委員長ニュック・ケオさんのリーダーシップのもと、6地区の委員が住民に声をかけて、募金を募り、建設の労力奉仕を呼びかけて、かやぶき屋根の校舎、2棟が完成しました。一つの棟には、職員室と入り口正面には仏像を安置し、仏教への信仰の厚いカンボジアのお年寄りの憩いの場となっています。その隣りの部屋は託児所となっています。
また、もう1棟は小学校用の2部屋となっています。さらに、最近日本の皆さんの支援で校舎の裏に新しく伝統文化教室兼孤児の宿泊部屋ができました。教員はすべてボランティアで、託児所はスラム内部から2名、小学校レベルは以前からSVAが支援するアジア子どもの家(カンボジアの幼児教育を支援する自治労との共同事業)の児童相談を担当し、スラム地域の子どもの教育支援を続けていたネット・ボナーさんが自らボランティア教員をかってでると共に、知人に呼びかけて集めてくれたものです。また伝統舞踊と音楽は住民の熱心な呼びかけに応えて、プノンペン芸術大学の教員が協力してくれています。楽器類はカンポート州の僧侶がお寺のものを寄贈してくれたもので、衣装は日本の皆さんからの支援でそろえることができました。こうして始まった伝統文化活動は貧しい子どもたちに生きがいを与え、誇りとなり、外部からの公演の依頼もあり、スラムの誇りとなりつつあります。
こうして住民の熱い思いで始まったコミュニティー・スクールですが、必要な教科書や文具もほとんどなく、孤児たちの食料もなくなりかけていたので、SVAが支援を始めました。しかしそれ以外にも、無給で来てくれているボランティアの教員も子どもたちも貧しくて、生活のために授業を休みがちなことや保護者の教育への関心が低く、寄付もほとんどないので電気や水道代などの維持費が出ないなどまだまだ問題が山積み状態ですが、子どもたちの未来を切り開くためにみんなで力をあわせて困難を乗り越えていければと思います。
スラムの人々の灯したこの小さな希望の火が決して消えることのないように。
(注)小学校の純就学率とは、公式の就学年齢に相当する子どもであって小学校に就学する子どもの人数を、当該年齢の子どもの人口で割ったもの。一方、年齢にかかわらず就学する子どもの人数を、公式の就学年齢に相当する子どもの人口で割ったものを総就学率という。