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国際人権ひろば No.62(2005年07月発行号)
現代国際人権考
世界そしてアジアの中の日本
松尾 カニタ (まつお かにた) FMCOCOLOプログラムスタッフ・京都精華大学非常勤講師
戦後60年-アジアの中の日本
今年で戦後60年。日本は戦争への強い反省のもと、憲法に平和主義を掲げ、この60年を歩んできました。しかし、アジア各国は日本の戦争責任や歴史認識、国連安全保障理事会の常任理事国入りの動きなどを巡って、厳しい目線を日本に注いでいます。中国では今年大規模な反日デモが各地で繰り広げられました。また、「韓流ブーム」とは裏腹に、日本と韓国の関係もぎくしゃくした状態が続いています。「戦後60年も経ったのに、なぜ?」「なぜ日本の戦後の歩みを認めようとしないのか?」「日本の姿勢に問題があるのでは?」...多くの日本人はきっとそんな疑問を持ったのではないでしょうか。
私にとっての「アジア」
タイに生まれ日本に暮らして25年になる私にとって、「アジア」と言う時に、必ずしも日本人と同じイメージを持っているわけではありません。私にとって「アジア」とは、インド、中国そしてイスラムの三大文明がつくりあげられ、かつ様々な土着文化、民族、言語が複雑に織り成された世界を意味します。タイをはじめとする東南アジア諸国は、この三大文明の「はざま世界」にあり、古代から現在まで法律、官僚制、文字、宗教、教育制度、建築技術、そして生活様式にいたるまで、この三大文明の影響を受けてきました。とりわけ、地域間のバランス・オブ・パワー的には、近代までは、いずれの国も中国中心の朝貢システムに組み込まれていました。戦後になって、他の地域と同様、世界秩序の中に入りましたが、いまでもなお多くのアジアの人々は、常に中国やインドを尊敬の目で見ています。
古代の日本も、朝貢システムに組み込まれつつ、中国文明からあらゆる要素を取り入れて独自の文化を育んできました。そのため、明治維新までは、多くの日本人も漢文を習い、中国を憧れの国として尊敬してきました。ところが、明治維新以降、日本は「脱亜入欧」でヨーロッパから政治システムや近代建築技術、生活様式などをとりいれるようになってからは、アジアを統治あるいは支配する対象として見るようになりました。さらに、戦後になって日米安保条約の枠組で国家体制が敷かれ、アメリカ文化の影響を強く受けるようになってからは、たちまち日本は他のアジア諸国と異なるアイデンティティーをもつようになりました。日本人の多くがかつて尊敬した対象である中国はもちろん、アジアの国々を腐敗、汚職、混迷、無知、停滞、無秩序、いわば「負の象徴」としてみるようにもなったのではないでしょうか。
アジアとの共通理念づくりの年に
もっとも、すべての日本人がアジアを軽蔑的な目線で見ているとは思っていません。また、これまで、アジア諸国に対して日本が積極的に経済支援を行ってきていることも評価したいと思います。金額の面はさることながら、下水道処理や自然災害の防止、省エネルギー対策など、日本がもつ世界水準の技術をアジア諸国へ伝えてきたことは、アジアと接するのにもそして日本への理解にも有効な手段でした。また、ここ数年、アジアに生産拠点をもつ多くの企業経営者にアジアの人々の考え方を理解し、その上で日本のやり方を伝え、同時にアジアの人々のやり方も受け止めていこうとする姿勢も感じられるようになりました。加えて、国内の日本人にも多少の変化が見られます。近年では小中高の学校教育の中でも「国際理解教育」としてアジアの国々について学び、さらに修学旅行でアジアへ出かける学校も増えています。
その意味では、私は日本の中に、軽蔑的な目線でアジアを見るのではなく、アジアを知るというプロセスがいろいろなところで始まっているようにも感じます。昨今の対日感情に冷静に対応しながら、日本がすべきことは、自らのアジア観を問いただして、アジア各国にこれまでのノウハウを伝え、かつアジアとともに普遍的な理念を作り上げていくことが大切のように思います。
戦後60年の今年、アジアをどのように見ていくべきか、あるいはアジアとどんな共通理念をつくれるか、真剣に悩み、行動する年にもなればと思います。