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国際人権ひろば No.63(2005年09月発行号)
人権の潮流
いま日韓関係をどう考えるべきか
郭 辰雄 カク チヌン (特活)コリアNGOセンター運営委員長
日本の実質的な植民地支配が始まった第二次日韓協約(乙巳保護条約)から100年、朝鮮解放から60年、日韓条約から40年という大きな節目の年である2005年を迎え、日韓関係は独島(竹島)問題、教科書問題、小泉首相の靖国神社参拝など過去の歴史をめぐって深刻な対立状況が生まれている。
3月16日、島根県議会が「竹島の日条例」を制定したことを受けて、翌17日には盧武鉉大統領が新たな対日政策について、これまでの「歴史問題を外交問題化しない」との方針を転換し、(1)歴史の徹底した真相究明と真の謝罪、反省、(2)独島及び歴史問題を巡る植民地支配を正当化しようとする事案に断固対処、(3)韓国の大義と正当性を国際社会に示す努力、(4)政治外交的交流継続、経済・社会・文化・人的交流は増進、の4つの原則を掲げ、歴史問題について日本政府に断固対処していく方針を明らかにした。
これに対して日本国内では、「国内向け」(小泉首相)、「両国関係の歴史の歯車を戻すもの」(町村外相)など、困惑と批判を持って受け止められ、一方でメディアなどでも、保守的な評論家などが「韓国の反日教育が歪んだ日本観を植え付けている」とあたかも韓国政府にすべての責任がある、あるいは政権基盤が不安定で、国内の反日世論に押されてやむなくやっていることであるという見方が主流であるようだ。
果たしてそうであろうか。私は韓国がより積極的な意味で、自国の歴史の見直しともあわせて、「新しい韓国」への脱皮を図ろうとしていることの一つの表れであり、それはまさに市民社会の次元で「戦後」が本格化していると考える。そのことは、平和憲法と戦後民主主義の枠組みによって支えられてきた日本の「戦後」が「後景化」しつつあることと正反対のベクトルとなっているのである。したがっていまの日韓の摩擦と対立は、一つひとつの事象の評価というレベルを越えて、日韓それぞれが今めざそうとしているビジョンの違いまで見据える必要があるのではないだろうか。
韓国における市民社会の成長
このことを理解するために、韓国社会のこれまでの変化を整理してみよう。
1945年、朝鮮半島は日本の植民地から解放され、喜びに沸いたが、米ソによる東西冷戦の本格化にともない、朝鮮半島は南北に分断され、朝鮮戦争という同族相争う悲劇が引き起こされた。その結果、韓国は冷戦のもと東北アジアにおける米国の反共最前線基地国家として組み込まれることとなり、国内的には、親日派に起源を持つ勢力が権力を掌握し、思想的には反共を国是とし、軍部を背景とする軍事独裁体制が構築されることとなった。
これに対して民主主義、統一を求めて闘う反独裁民主化運動が、学生、労働者、市民を中心にして闘われてきた。
そして1987年6月、それまでの大統領間接選挙制ではなく、大統領直接選挙制を求めて数百万の民衆が街頭を連日のように埋め尽くした「6月民衆抗争」の結果、盧泰愚次期大統領候補が直接選挙制を受け入れることとなった(6・29民主化宣言)。
大統領直接選挙制の実現は、暴力的手段を用い、市民の意思を封殺することによって権力を維持してきた韓国の権威主義体制を否定し、一定の「制度的民主主義」を市民が自らの手で「勝ち取った」ものであるといえる。
そして1980年代後半に入って韓国国内では、(1)長年にわたる民主化運動の過程で蓄積されてきた力量と経験、(2)一定の制度的民主主義の実現、(3)1990年の韓ソ国交樹立、1991年の南北基本合意書合意、1992年韓中国交樹立など世界冷戦の終結にともなう国際環境の変化、などの要因を背景として1980年代後半から1990年代にかけてさまざまな市民団体が誕生し、社会的な影響力を獲得していくこととなる。
1987年には女性たちの団体である韓国女性団体連合、韓国女性民友会が結成され、女性の権利擁護と地位向上のための運動が広がり始める。また同年、それまで権力と癒着した「御用労働組合」のもとで抑圧されてきた労働者たちが民主労働組合を設立する動きが広がり、1987年に2675だった民主労働組合が、1989年には7883まで拡大を見せ、1995年にはナショナルセンターである民主労働組合総連盟が結成された。
一方、それまで韓国社会で大きな争点とならなかった環境、経済平等、人権、市民の社会参加、障害者、外国人労働者、米軍犯罪、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)への人道支援など多様なイシューを掲げる団体が次々と結成されていく。
こうした韓国市民社会運動の特徴の第一は、急激な量的成長である。1999年に発行された「韓国市民団体総覧2000」によると、約2万団体(支部も含む)にのぼる市民団体のうち、設立年度が1980年代以降の団体が約75%を超えている。第二の特徴は社会のあらゆる分野、イシューへの進出である。第三には、それまでの民主化運動は「独裁対民主」という構造のなかで、戦闘的批判勢力としてあったが、90年代以降、市民運動は「進歩・改革」にむけた自律的な「代案提示勢力」として登場してきた。第四には合法化された運動空間の拡大にともない、市民の参加が促されてきたことである。
韓国政治のダイナミックな転換
こうした市民社会の成長を背景として、1987年には1980年光州事件の背後操縦者として死刑判決を受けた金大中氏が大統領として当選した。金大中氏の評価についてはさまざまな視点があるが、少なくとも市民社会との関係という意味では歴代政権とは大きく異なっていた。具体的に見れば、朝鮮半島の平和と安定のための北朝鮮への「太陽政策」、「済州4・3特別法」、「民主化運動関連者名誉回復・補償法」、「疑問死真相究明特別法」など軍部独裁政権時代に犠牲になった人たちのための法・制度実現、政府から独立した国家人権委員会の設置、女性省(05年6月より女性家族省)の設置を実現した。そして国家人権委員会、女性省のトップはいずれも長年にわたって市民運動をおこなってきたリーダーを任用している。
つまり、韓国の政治において、平和・人権、そして軍部独裁政権時代の歴史的清算が政策の重要イシューとして掲げられ、推進されるようになった。
こうした流れは、現在の盧武鉉政権の政策にも基本的に引き継がれている。もちろん韓国国内でもこうした転換が一切の摩擦や対立なしに実現したのではない。特に2004年3月には選挙法違反をめぐり、盧武鉉大統領の弾劾決議案が国会を通過し、大統領職務権限停止にまで追い込まれた。しかしこの過程で市民団体は大規模な弾劾阻止運動を展開し、2004年4月におこなわれた国会議員総選挙では与党のウリ党が152の過半数議席を獲得し、5月には憲法裁判所が大統領の罷免請求を棄却、職務復帰を果たした。
そして総選挙では「386世代」(30代、80年代学生運動経験者、60年代生まれ)が大挙して議員として当選を果たし、民主化運動出身の人々が政治の舞台に登場してきたのである。
その盧武鉉政権はいま「東北アジアの地域バランサー」として朝鮮半島を含む東北アジアの平和・安定にむけた役割を果たそうとしている。同時に軍部独裁政権時代の韓国社会の誤ったあり方を再検証し、なぜそれが生み出されたのかを徹底して総括しようとしている。2004年12月に国会を通過した「反民族行為真相究明特別法」、日韓条約締結過程での外交文書公開などは、単に日本に対する対抗的政策なのではなく、こうした韓国社会の変化の脈絡からとらえられるべきであろう。
終わりに
いま韓国では、市民社会の成長のなかで新しい社会を実現していくための努力が続けられている。その韓国社会から見たとき、いまの日本のあり方が不信と不安をかき立てるものに見えているのも事実である。教科書問題、靖国神社参拝問題などをみても、これまで日本政府がアジアの国々に対して配慮してきたことを蔑ろにする対応を見せており、過去について謝罪と反省はしているといいながら、「慰安婦はなかった」など閣僚の妄言は後を絶たない。そしてイラク派兵や憲法改定の動きなども浮上しており、日本がこれからどの方向に進もうとしているのかという危機意識を、韓国をはじめとするアジアの国々が持っていることを理解する必要があるだろう。
7月22日の読売新聞を皮切りに、いくつかの日本の新聞に歴史教科書問題に取り組む韓国の市民団体の意見広告が載せられた。その広告のタイトルは「ともに東アジアの平和の担い手へ」というものであった。
いま韓国の人たちは自らの歴史、日韓の歴史を正しく総括しながら、これから共に生きていく平和な東北アジアを実現していこうと日本の市民社会に呼びかけている。
これにどう答えていくのか。この答えのなかにこそ、これからの東北アジアでの日本のビジョンがあるのかもしれない。