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国際人権ひろば No.64(2005年11月発行号)
国際化と人権
戦後60年-アジアの中の日本を考える
イーデス・ハンソン アムネスティ・インターナショナル日本 特別顧問
どっちが「平和ボケ」?
世界から見ると日本はアジアの一部だが、日本はアジア全体を越えた、あるいは上位の国だと考えている日本人が結構多い。逆にアジア諸国から見れば、日本は歴史的な理由で警戒されている。特に最近の軍事力重視の傾向に対して。
日本は憲法を改正してひけめなしに使える軍事力を持つべきだという考えに私は賛成できない。しかし、そういった考えに対して「平和ボケだ」と批判する人々がいる。つまり、憲法9条存続に賛成の人々を「平和ボケ」と決めつける。よくよく考えると、「平和ボケ」にも2通りある。ひとつは憲法9条支持派。軍隊はいらない、今の自衛隊で十分だと考える人たちだ。世界の日本を取り巻く現状の厳しさを把握していない、あるいは楽観的な態度は厳しさが足りないと批判される。本当にそうなのか。やはり厳しさや危機を認識した上でも軍事力で対応すべきではないと言える。なぜなら、どんなに強力な軍事力をもっても不落の鉄壁を築くことは不可能で、そうではなく別の方法で危機と向き合うことは十分可能だし、他に途はないと思う。
それに対して、私たちを「平和ボケだ」と言い、「もっと充実した軍隊を持ちたい」と主張する側にも「平和ボケ」がある。この60年間、戦争の悲惨さを経験している人が少なくなってきている。また、日本国内で戦争が起きておらず、戦争というのはニュースの中、他人の国、他人の領土でやるものだという感覚が生まれ、爆弾が飛んで来ないのなら「じゃあ、もういっぺんやってもいいわ」という感じになりやすい。戦争経験のない人たちの中にはそういった流れで軍隊を許容する人もいる。時間が経つと戦争の愚かさや惨劇を忘れる・薄れる・分からなくなる傾向はあるが、その風化が国内はいつも平和だという錯覚を招きやすい。ただ、例えば広島にある資料館ではいくつかの展示品が強烈過ぎて子どもに戦争をありのまま伝えられないという苦しいジレンマもある。
さて、この2つの「平和ボケ」。どちらが日本にとって好ましいだろうか。アジアにとっては前者の「平和ボケ」のほうがありがたいのかも知れない。もしそういう人たちがいっぱいいれば、付き合える、友だちになりやすいということになると思う。
軍事大国アメリカでさえベトナム戦争では泥沼で立往生してしまった。強い軍事力を持つというのは問題解決にならないし、行きつくところが見えている。だからこそ、軍事力に頼らない方法を追求することが現実的であり、大切なのだ。他のアジア諸国に後者の「平和ボケ」のイメージが強くなると、そうでない人たちにとって迷惑な話になる。実際そのイメージを消そうとする人たちやNPO・NGOで活動している人たちはたくさんいるから。また、軍事の問題に直接意識しないまでも、人権擁護や国際協力の活動を通して、結果としてその強面のイメージを消そうとしている人々もいる。
各地で活躍する日本人
そういった支援活動をする人たちの中に、例えばアムネスティ・インターナショナル日本がある。これは世界規模の人権擁護団体で、中でも私が感心した活動のひとつに1970年代から取り組まれた韓国の政治犯の救援活動がある。これは大阪・豊中市の主婦を中心としたグループで、イベント・講演会・勉強会・バザーの開催などを通して支援をした長年にわたる活動だ。その後、韓国の政治状況がだいぶ変わって、その当時の政治犯であった人が、現在では韓国の重要なポストに就いたりするといった変化もある。そうなってくると、かねてから大阪の主婦たちがああいう活動をしていたことがものすごく評価されている。「そういう日本人もいたんですか」っていう意外性と驚きの感じ。
また、「エファジャパン」という私が役員をしているNPOでの活動がある。ベトナム、ラオス、カンボジアに「アジアの子どもの家」という施設を作り、ストリートチルドレンへの教育支援を行っている。
さらに、エファジャパンと協力関係にあるNGO「セーブ・ザ・チルドレン」は、ベトナムの山奥の村へ行き、子どもたちのために奔走して本を作っている。
これらの活動では日本人が非常にいい仕事をしている。しかもものすごく安い給料で向こうに行って仕事をしている。こういう打算的でない日本人の存在は他のアジア諸国から大変信頼され、評価されている。
しかし、後者の「平和ボケ」のイメージを消すのには規模がまだ小さいのが現状だ。もっとこういう日本人が増えて「ああ、日本人ってこんな良いこともしているし、魅力を感じる。自分もそういういい顔をよそに見せたい」という風に変われば本当に素晴らしいことだ。そうすれば、アジアの中の日本のイメージが変わって良い方向に向かうことができる。
アジアから好かれる日本をめざして
アジアを超えて世界でも人権を守るよりどころとして世界人権宣言や国際人権規約などがある。これらは世界中の、地球の人たちみんなが認めた世界の人権の基準で、それはとても意味があることだ。それらを読んで、「それは理想だ」と言う人がいるかも知れない。事実、これらの基準は全てが必ずしも守られてはいない。しかし、理想だと即断してしまうのは進歩がない。むしろ、その実現をめざす目標として捉えることが重要なのだ。そして、この基準を知ることで、さらには知るだけでなく、本当に日々の生活に関係あるものとして、基準を感じ、考えることだ。そうやって、実際に自分のものとして行動できれば、日本は胸を張って「人権国」と言える立場にかなり近づいてくる。
日本が世界一、アジア一になればいいと思うのはこういうことだ。軍事力、あるいは経済力ではなく、人権がきちんと守られているという点でアジアの一番になればいい。しかも、それにはお金をかけないで一人ひとりの意識で達成できる部分がある。必要なときは互いに助け合っていけばいい。
ただ、国同士の付き合いではどうしても政治的な見栄や、駆け引きが生じるのは事実だが、国と国もしょせん人間の塊と人間の塊、つまりひとりの人間の集合体なのだ。だから、民間レベルでもっと一人ひとりができることをすれば、それは結局自分の国のためになる。実際、先程話したように、人権や国際協力の活動をしている団体はたくさんある。これまでそのような活動に関わっていなかった人も自分に合う活動を見つけて行動し続けることで、ひとつの大事な、具体的な「外交」につながってくる。国レベルの外交は国内の評判・受け・考えのみに向いて都合のよいことを発言し、他国の評判は二の次になりやすい。だから、可能かどうか分からないが、民間からも行動を起こさないといけない。物事はどのように影響し合い、どうつながっているのか、またこれをこういうふうにすればどのように見られるのかという、広く見る姿勢がなければこの先アジアの中で日本の立場はより難しくなる。主体性があり、かつ自分の考えをきっちりと説明し、相手のことを聞く姿勢を見せれば、随分違ってくる。
最後に私が心から言えるメッセージ-日常生活の中でどういうふうにアジアの中の日本をイメージしてつくっていこうとするかやね。一緒にがんばろうね。
※編集注:この報告は、05年9月15日に大阪市内で開催した「国際人権を考えるつどい」での記念講演を要約したものです。
(構成:長澤光・ヒューライツ大阪)