ヒューライツ大阪は
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国際人権ひろば No.66(2006年03月発行号)
肌で感じたアジア・太平洋
タイ修学旅行に取り組んで -合い言葉は「マイペンライ」
青山 明彦 (あおやま あきひこ) 大阪府立三島高校教員
■なぜ海外修学旅行か
学校現場でも国際化が叫ばれている。ところが一部の学校を除いてその実体たるやお寒い限りである(英語の単位数を増やすだけで「国際化」と称する学校もあるくらいである)。本校でも『国際交流部』が中心となり主にアジアからの留学生との交流を継続的に行っているが、あまり全校的な取り組みになっていない。
そのような問題意識を持ちながら、3年前の2月頃、私たちは三島高校34期生担任団を結成した。新担任団の最初の大きな仕事が修学旅行の企画立案である。学校独特の文化で旧態依然たる修学旅行には賛否両論あるが、「国際化」を全校的なものにする一つのきっかけとして海外修学旅行は有効であろうと私たちは考えた。そして「国際化」の中心課題「異文化理解」を目的として海外修学旅行に取り組むことを決めた。現地の高校生との充実した交流活動のできることを第一条件として、安全面・予算・スケジュール等からタイを候補地とした。
■根強い抵抗感の中で
2003年4月、私たちは新入生を迎えた。折しもアメリカのイラク攻撃が始まったばかりで国際情勢は不安定。我々担任団は2004年11月に実施する海外修学旅行の方針を生徒や保護者にどう伝えるか、緊張した。「9・11同時多発テロ」以来、海外修学旅行を中止せざるを得なかった学校の情報が入っていたからだ。そこでわれわれは海外修学旅行の方針を立てた理由・経過を説明した上で保護者と生徒にアンケートをとった。その結果は、(1)保護者:海外旅行に賛成70%、反対12%、行き先としてタイに賛成58%、反対14%、(2)生徒:海外旅行に賛成74%、反対9%、行き先タイ賛成49%、反対17%、というものであった。反対意見の多くが国際情勢に対する不安とSARSに関するものであった。しかし、アジアに対する偏見としか思えない内容も少なからずあった。このことは今回の修学旅行の大きな課題となる。
ところで、保護者の意見の中に「現地の高校生と交流するといいながら、現地の人がとても泊まることのできないような高級ホテルに、日本の高校生が大挙して泊まっていることを現地の人はどう感じられるだろうか」という問いかけがあった。大切な視点であろう。海外修学旅行に取り組む我々の姿勢をもう一度厳しく問い直すきっかけともなった。
■生徒の意識の変化-事前の取り組みの中で
タイへの偏見の多くは無知からくるものであった。そこで、とにかくありとあらゆるツテを頼って、タイについて勉強していこうということになった。幸い本校の卒業生にタイの大学で日本語を教えている人がいたり、高校時代にタイに留学してその魅力にはまり、将来タイで医療活動に従事する目的で医学生になった人もいたりで、ずいぶん助かった。
タイ舞踊鑑賞と講演会、留学生とのホームルーム交歓会、タイの学生との文通、授業「現代社会」での学習、プラティープ財団の学習会と講演会、タイでボランティア活動をしている大学生とのホームルーム交歓会、タイ語講座などかなり盛りだくさんな内容の取り組みではあったが、生徒・教員ともにだんだんとタイへの興味がふくらんできた。
最初、生徒の中に根強くあった偏見も徐々に薄らいできたように思う。それを象徴することがあった。修学旅行メニューの中に現地の家庭に宿泊するホームステイの企画を立てたところ、90名近くの生徒が応募してきたのである。事前にタイ式トイレのこと、シャワーはないかもしれないこと、お風呂も水風呂かもしれないこと、ムシのことなどなど、普段の生徒らの生活ぶりから考えると抵抗のあるようなことも包み隠さず話をした。1年生の頃のタイに対する生徒の意識からすれば、何人の生徒が応募するか不安であったが、ふたを開けてみると定員の2倍以上の希望者がでた。最終的には抽選で40人に絞ったが、「せっかくタイに行くのに西洋式の一流ホテルに泊まって日本式の味につくった料理を食べても意味がない。軒先でもいいから現地の普通の生活をしている人の家に泊まりたい」と哀願する生徒もいた。生活の違いを、進んでいるとか後れているとかで捉えるのではなく、文化の違いとして積極的に受け入れようとする生徒が確実に増えていることを実感した。
■「マイペンライ」
事前の取り組みの中から次第にメニューが決まっていった。目玉は(1)東北部のナコンラチャシマでの現地高校との交流、(2)ホームステイ(希望者)、(3)バンコクでのグループ別体験(文通をしていた大学生との交流、プラティープ財団でのボランティア体験など)である。海外修学旅行の最大の目的は現地の人との交流である。今回2つの高校に別れて全員が1日中受け入れていただけたのは幸運であった。簡単に海外旅行のできる時代だが、現地の人と1日中行動を共にできる経験などは貴重なものであろう。
ところで今回の修学旅行で私たちが一番勉強になったのはその準備の過程である。タイの方と接していると日本の「常識」とは何なのだろうと思うことが多くあった。時間感覚、計画の進め方、交渉の仕方などすべてが我々の「常識」と違う。タイ人の気質を表す語として「マイペンライ」という言葉がある。「気にしない、気にしない」「なんとかなる」などの意味だそうだ。まさにその通りだと思った。とにかく自分の中にある「常識」という価値を心底考え直させられた。そして海外修学旅行の意義はこれなのだろうと思った。文化の違い、イレギュラーなことをおもしろいと思えるか否か。「まあなんとかなるやろ」と思えるかどうか。私たちの修学旅行の準備の過程は「マイペンライ」の精神を受け入れていく過程であった。
■本当の「マイペンライ」
「マイペンライ」の精神を受け入れたとはいえやはり本番は心配であった。計画通り進むのだろうか。立ち往生する場面はないのだろうか。しかしそれは杞憂に終わった。
本番2日目の現地高校生徒との交流日。バスが交流相手校の校地に入る。大歓声! なんと相手校の生徒全員が校舎の窓から身を乗り出している。大がかりな装飾の施された歓迎レセプションの会場には民族衣装を着た生徒がズラズラズラー! 全員があふれんばかりの笑顔。我々のバスの中は大騒ぎ「どうする、どうする、こんなんされるの生まれて初めてや」。なんと交流相手校は3日間授業を取りやめて歓迎準備をしてくれたそうだ。このようなことが日本の学校で考えられるだろうか。私たちを歓迎するために、授業をカットすることについて彼らは「マイペンライ」なのである。しかし我々にたいする温かい歓迎の気持ちは決して「マイペンライ」ではなかった。
すべてがうまく回った。往きの飛行機の中でもまだ「なんでタイになんか行くン? 北海道が良かった」とさんざん文句を垂れていた男子生徒が、旅行後、涙目で「おれヤバイ。タイにはまりそう」と言った。
教員生活の中でこれほど感銘を受けた修学旅行はなかった。帰国後、気分の高揚したままの私は生徒の劇的な変化を期待した。「国際化」を期待した。...
その年の末、スマトラ沖地震がありタイも甚大な被害を受けた。おそらく何らかの生徒の動きがあるだろうと私は期待した。しかし、ほとんど反応なし
[注]。...私は心底失望した。しかし冷静になった後、自分を恥じた。あるべき「国際化」の姿を勝手に夢想し、たった1回の海外修学旅行で生徒が劇的に変わることを期待した私は、狭量で典型的な教条主義的教師であった。今回のタイ修学旅行で何も学ばなかったのは私かもしれない。生徒はもっとしたたかでしなやかである。マイペンライ、マイペンライ。
注:その後、生徒有志のねばり強い呼びかけで義援金募金活動が始まった。
※ この原稿は、2005年6月に開催された第13回大阪府在日外国人教育研究協議会研究集会のレポートに加筆したものである。