ヒューライツ大阪は
国際人権情報の
交流ハブをめざします
国際人権ひろば No.66(2006年03月発行号)
特集 ミレニアム開発目標と日本の課題 Part2
あえて『貧困削減』に異議を唱える 『JBICウォッチ』とミレニアム開発目標
松本 悟 (まつもと さとる) 特定非営利活動法人メコン・ウォッチ代表理事
■『JBICウオッチ』の立ち上げ
国際協力銀行(JBIC)-この聞きなれない政府機関の名前が、2005年末以来、新聞紙上に大きな活字で取り上げられてきた。郵政民営化に次ぐ小泉政権の政策の柱である政府系金融機関改革の矢面に立たされたからだ。8つの政府系金融機関を1つにするという小泉首相らしいわかりやすい政策ではある。しかし、他の政府系金融機関と異なり、JBICには政府が意思決定を行う円借款ODA業務と、機関の長が決定権を持ち日本企業の海外でのビジネスを支援する国際金融等業務という、性格が異なる2種類の金融が含まれている。そこで、この2つの業務を切り離して、円借款ODAは国際協力機構(JICA)と統合し、国際金融等業務は一本化される政府系金融機関に含めることが提案された。これに対して、既得権益を失いかねない財務省の抵抗や、新組織の主導権争いが取りざたされた。JBICが新聞紙上を賑わしたのは各省間の権益争いがニュースだったからであり、発展途上国の開発や日本企業の進出に公的資金をどう使うべきかという本質的な議論はなされなかった。いや、私たちNGOも本質的な議論を喚起できなかった。
組織の大きな枠組みは、権益の争いで決まることは世の常であり、狭い権益(=省益)を持っていない外部者から見ると、どうでもいいことだとも言える。どのような組織体制になったとしても、既得権益を失わないための装置は官僚や政治家たちによって埋め込まれるものであり、そこにNGOの限られた資源を費やすのは割が合わない。半面、広い権益、すなわち日本の公的資金投入で影響を受ける発展途上国の人たちの生活権は、組織体制がどうなっても守らなければならない。それは、今後制定される新組織の設置法や業務方法書をめぐる議論の中で確保することは可能だと考えた。
そこで06年1月に立ち上げたのが
『JBICウォッチ』である。発展途上国における日本の公的資金の使われ方をモニターしてきた、FoE Japan、『環境・持続社会』研究センター(JACSES)、メコン・ウォッチの三団体が、共同で運営するホームページだ。JBICが融資した事業によって生活を脅かされた人たちや、現在融資を検討中の事業に懸念を持っている人たちの声を伝え、組織体制にかかわらず求められる政策や実施体制を提言するのが目的である。
先住民族の生活を破壊し十分な補償もなされないままのフィリピンのサンロケダム、水争いにつながりかねないばかりか不当に土地権を侵害されたとして行政裁判が次々と起こされているタイのゲンコイ2火力発電所、下流への影響をまったく考えないベトナムのブオンクオップダムなどは国際金融等業務で問題となっている事業だ。
また円借款ODAでは、立ち退きによって生活が破壊されたまま適切な対策をとられていないスリランカの南部ハイウェー建設事業、工事中の粉塵が原因と思われる健康被害が放置されたままのタイのラムタコン揚水式発電所、住民が知らないまま進められているインドのオリッサ州住民参加型森林保全プロジェクトなどで、現地から異議が唱えられている。
『JBICウォッチ』は、各省間の妥協の産物であれ、新たに生まれる組織が、事業によって影響を受ける人たちの生活や人権を脅かさないようにすることを目的としている。その考え方を、JBICだけでなく広く開発協力に向けてみるとどうなるのか。本特集のテーマである「ミレニアム開発目標」に関連づけて捉えなおしてみる。
■「貧しさ」とは
そもそも「貧しさ」とは何だろうか。14年前にラオスでの草の根開発協力に携わるようになってすぐに向かい合うことになったのは、この根源的な問いだった。きっかけとなったのは村人が口にした「開発援助がやってきて自分が貧しいことを知った」ということばである。同じような経験を持つ開発ワーカーたちと何人も出会ったことを思えば、例外的で個人的な見解とは思えない。ひとたび開発に慣れてくると、村人たちは「貧しい」を連呼するようになる。そうすれば援助がやってくることをよく知っているからだ。政府の役人たちも「わが国は貧しい」と口をそろえる。立派な住居に住み、マイカーを持ち、外国人に家を貸して外貨を稼ぎ、しかし、税金はあまり納めない。そんな人たちが自国の貧しさを嘆き、もっと援助を、もっとインフラ支援を、もっと水力発電ダムを、と求める。そうすれば、国が富んで貧しい人たちが救われるのだ、と。
別の声にも出合った。90年代半ばラオス南部が大干ばつに見まわれた。被害を視察した国連職員は、「こんなにひどい干ばつなのに餓死者が一人もいなかった。なぜなら、森からの恵みがあったからだ。エチオピアで同じようなことが起きたら、大量の餓死者が発生していただろう」と語った。ラオスでは「豊かさ」に相当することばが2つある。1つはウドムソンブン。これは豊穣というニュアンスでお金では計れない豊かさを指す。もう1つはハーン。金持ちという意味だ。ラオスの農村の人たちはウドムソンブンの大切さを説き、その価値を高く評価している。村人たちは自然だけに依存した自給的な生活を続ければ幸せだ、と断定しているわけではない。しかし、東南アジアの農村に足を踏み入れれば、ほとんどのフィールドワーカーたちが耳にし、肌で感じるこうした「豊かさ」が、ミレニアム開発目標には全く反映されていない。現場の感覚を最も大切にしているはずのNGOまでが、貧しさを、○秒に1人が死ぬ、○万人が××を得ていない、という数字で語り、援助の増額を求める旗振り役をしている。そこでは、「貧しさ」の解釈や、「貧しさから脱却すること」の意味が、十分に論じられているとは言えない。
■「貧困削減」政策をモニターする
「貧しさ」はいかようにも解釈される。自然環境に依存しながらほどほどの生活をしていた人たちを貧者と名づけ、自然と切り離して現金に依存する生活に転換を求める。収入も増えれば支出も増えるライフスタイルを暗黙のうちによしとしている。しかし、1日1ドル以下で生活している人たちを貧困層と定義するからには、借金にあえごうとも現金をより多く使う人たちは貧しくなくなる。
日本が一、二の出資国であるアジア開発銀行と世界銀行という2つの国際開発金融機関は、05年ラオスのナムトゥン2ダムへの支援を決めた。発電した電気をタイに輸出した外貨収入で「貧困削減」するという。6,000人余りの山岳民族や10万人近い川沿いの住民は、自然に依拠した生計手段を失う。自給的に暮らす村人のおかずとしての魚と、巨額の利益を産み出す水力発電が秤にかけられ、にべもなく川は村人から取り上げられる。川に依存する「貧しい」生活から脱却するよう洗脳され、おおよそ失敗する。失敗は、村人の自己責任や援助を受けた国の政府の責任として片付けられる。
そんなプロジェクトが「貧困削減」のもとで進められている。「貧困削減」は巨大事業や破壊的なインフラ事業の推進力となっていることにもっと注意深くなるべきだ。
あす食べるものもなく、命の危険にさらされている人たちは確かにいる。その人たちに手を差し伸べるなといっているのではない。むしろ、そうした人たちの姿を前面に出して慈悲とお金をかき集め、別の姿をまとった途上国の人たちのために使われていないと本当に言えるのか。
「貧困削減」というレトリックは、それがどのように機能しているかを見ずして、無批判に金科玉条のごとく掲げるべきではない。『JBICウォッチ』はODAを担う政府・機関と同時に、同じNGOとして、貧困削減のために援助の増額を唱えるNGOに対しても警鐘を鳴らしている。