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国際人権ひろば No.67(2006年05月発行号)
『裁判官・検察官・弁護士のための国連人権マニュアル -司法運営における人権-』を読む2
「第2章 主要な国際人権文書およびその実施機構」、 「第3章 主要な地域人権文書およびその実施機構」について
阿部 浩己 (あべ こうき) 神奈川大学法科大学院教授
■ 国際人権保障の展開と日本のかかわり
「人種、性、言語又は宗教による差別なくすべての者のために人権及び基本的自由を尊重するように助長奨励することについて、国際協力を達成する」ことを目的の一つに掲げる国連憲章が採択されて以来、人類は人権の国際的保障という究極の目標に向けて本格的な歩みを開始した。むろん、その以前にも人権の実現に向けた国際的営みがなかったわけではない。たとえば、戦時における人権保障に関わる諸条約や労働者の保護を目的とした国際労働機関(ILO)の活動などがすでにして少なからぬ先行実績をあげていた。国際社会は、そうした実績の上に、さらにパワーアップした人権保障の枠組みを漸進的にしかし着実に築きあげていくことになる。
国際人権保障への歩みを確かなものにする記念碑的文書となったのは、「すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準」として1948年に生を享けた世界人権宣言である。第2次世界大戦期の強烈な「負の記憶」を背負ったこの宣言を起点に、そののち国際社会には、グローバルスタンダードとしての人権基準が幾重にも創りだされていく。そのなかには、条約という形式で創られたものものあり、あるいは非拘束的文書として創られたものもあるが、両者は「国際人権文書」という言葉に包摂されて表現されることが多い。
世界の人権状況を反映して、国際人権文書は絶えることなく増え続けてきた。そのうち条約について第2章は、「裁判官・検察官・弁護士が日常的にその法的責任を果たしていくうえで解釈・適用しなければならない可能性がもっとも高い」ものに絞って解説を加えている。ここで紹介されている自由権規約、社会権規約、児童の権利条約、人種差別撤廃条約、拷問等禁止条約、女子差別撤廃条約は、「あらゆる移住労働者及びその家族構成員の権利の保護に関する国際条約」(移住労働者保護条約)とともに主要7条約として国際社会でもっとも重視されている人権条約である。移住労働者保護条約は2003年7月に効力を生じたものなので、その前に編まれた本書には言及がないが、現時点で編集されるのであれば、間違いなく紹介されてしかるべき条約といってよい。
第2章は、これらの条約に加え、ジェノサイド条約についても説明を加えている。2002年7月に効力を生じた国際刑事裁判所規程が象徴するように、近年は、重大な人権侵害行為を処罰することにより、動揺した秩序と被害者の尊厳の回復をはかる国際刑事アプローチが勢いを増している。ジェノサイド条約は、ナチスドイツによるホロコーストへの反作用として世界人権宣言に先立って採択された最も古い人権条約の一つであるが、20世紀最後の10年の間に旧ユーゴスラビアやルワンダなどで勃発した大規模な人権侵害事態において再び国際的脚光を浴びることになった。ジェノサイドは国際社会におけるもっとも重大な犯罪として今日の人権保障にはその撲滅が欠かせないものとされている。ジェノサイド条約への特別の論及があるのは、そうした認識の現われでもある。
日本は、ジェノサイド条約を除き、ここで紹介されているすべての条約の締約国になっている。したがって、これらの条約を遵守する国際的義務を負っているわけだが、義務の履行を担うのは第一義的には公的機関であり、そのなかには当然ながら裁判官も検察官も含まれる。日本においてこれらの条約は、憲法98条2項を通じ国内法としての効力を有し、効力順位も法律より上位におかれている。そのため、国内における関連法実務は、こうした条約との適合性を確保するように遂行されなくてはならない。
第2章では、条約の実体規定が解説されるとともに、「締約国の約束」についても関心が払われている。締約国がどのような義務を負っているのかが再述されているのだが、特に注意すべきなのは、自由権と社会権を截然と2分する論理が採用されていないことである。本文で述べられているように、自由権の実現にも国家の「積極的行動」が欠かせない一方で、社会権の実現にも「即時的効果を有するさまざまな義務」の履行が求められている。自由権と社会権とを決定論的に分かち、自由権規範は国家に法的義務を課すものだが社会権規範は国家に政治的責務を課すものにすぎないと述べることは、国際人権文書の解釈としては説得力を欠くことに留意しておくべきである。また、女子差別撤廃条約に最も顕著に現われ出ているように、人権条約の規制は私人間に及ぶことも見落としてはならない。
■ 条約の履行を促す国際的仕組とソフト・ロー文書の役割
人権諸条約の履行状況を監視し、規範内容を国際的に明確化する役割を担っているのは、条約ごとに設けられた実施機構である。先に述べた主要7条約を主要条約たらしめている一端は、こうした特別の仕組みが備わっているところにある。条約によって少々違いがあるものの、定期報告制度と通報制度(特に、個人通報制度)が国際的監視のための2本柱といってよい。報告制度は主要7条約すべてに備わっており、個人通報制度も児童の権利条約と社会権規約以外のものに備えられている。なお、拷問等禁止条約と女子差別撤廃条約はさらに調査制度も具備している。
報告制度と個人通報制度はそれぞれに特徴をもっており、両者をうまく組み合わせることで締約国における条約の履行を効果的に促すことができる。もっとも、国際的監視のメカニズムはあくまで補充的なものであり、国内の手続に取って代わるものでないことは本文に記されているとおりである。また、個人通報制度を利用するには締約国による受諾が別途必要だが、日本政府は現時点までいずれの人権条約における個人通報制度も受諾していない。したがって個人通報制度は日本国との関係では発動しえないままにおかれている。しかし、個人通報制度の下で条約機関が下す判断は、条約の解釈という点で日本においても参照されなくてはならない。履行監視の役割を与えられた条約機関の判断は、当該条約を誠実に遵守する国際義務を果たすうえで常に念頭におかれてしかるべきだからである。
第2章は、条約だけでなく、人権保障にとって特に重要な宣言、規則なども取り上げている。こうした非拘束的文書は「ソフト・ロー」文書と称されることもある。一般に、条約は締約国に法的義務を課しているのに対して、非拘束的文書は法的義務までを課すものではないと認識されている。そのことじたいは誤りではないが、本文に記されているように、非拘束的文書は、「裁判官・検察官・弁護士にとって重要な指針および発想の源」になりうるものである。条約の解釈を導く道標になることもある。それだけに、単に法的拘束力がないと一言で片付けてしまうのではなく、国際的な人権基準のよりよき実現のためにその有効な利用の途をさぐるべきであろう。
このほか第2章は、人権委員会をはじめとする国連の人権擁護機関に用意された特別手続についても解説している。これらの特別手続は、条約機関以上の柔軟さをもって、世界各地の人権問題に対する取り組みを促してきた。
■ 地域的人権保障システムに学ぶ
第3章は、地域人権保障システムについて論及している。第2章が普遍的な人権基準・メカニズムについて述べているのに対して、第3章では地域的な人権基準・メカニズムが分析されているわけである。ここではアフリカ、米州、欧州という3つの地域が取り上げられているが、一読して明らかなように、各地域ごとに実に豊かな人権保障への取り組みが展開してきていることがわかる。地域的取り組みは、普遍的な取り組みを損なうものであってはならない。そうではなくて、普遍的な基準を地域の実情にあわせてさらに高い水準に導くことが想定されている。この点で欧州の営みは群を抜いており、とりわけ欧州人権裁判所の判例には国際人権基準の解釈をリードする先進的なものが多く、米州やアフリカといった地域的な機関はもとより、普遍的な条約機関の判断にも大きなインパクトを与え続けている。
日本の所在するアジアあるいは東アジアには地域的人権文書も地域的人権保障機構も存在しない。そうした文書・機構をつくりあげようとする政治的意思が欠落しているからなのだが、ただ、アジアにも地域人権機構を設置しようとする声はさまざまなレベルで間欠的にあがっており、政治的な環境さえ整えば将来的に実現の見込みがないわけではない。
欧州や米州、アフリカで積み重ねられている地域的営みは、日本国内の法実務に直ちに影響を与えるものではない。日本は、欧州人権条約、米州人権条約、アフリカ憲章といった地域人権条約の締約国ではなく、したがって当然ながらそうした条約を遵守する法的義務を直接に負っているわけではないからである。しかし、地域的営みは普遍的な条約機関の解釈などに影響を与えてきており、また、日本の法実務にとって有益な指針を示すものも少なくない。所在する地域が違うからといって無関心に陥るのではなく、持続的に関心を保ち、人権保障に資する先進的な側面に積極的に学ぶ姿勢をとっていくべきであろう。