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国際人権ひろば No.68(2006年07月発行号)
特集 フォトジャーナリストがみた現実世界 Part4
「湖水とともに生きる」~グアテマラ サンティアゴ・アティトラン
古谷 桂信 (ふるや けいしん) フォトジャーナリスト
「世界でもっとも美しい湖」と世界各地から集まったバックパッカーから評されることもある「アティトラン湖」は、過去も現在もマヤの地である中米グアテマラにある。アティトラン湖は、首都グアテマラシティから西に200?ほどに位置し、琵琶湖の約三分の一の大きさ、標高1,560mのカルデラ湖だ。湖をとりまく緑濃い外輪山には、色鮮やかな民族衣装とマヤの伝統文化が受け継がれる20以上のマヤの村々が散在しているのである。
湖北岸にある観光地のパナハッチェルから南を眺めると、蒼い湖水を挟んだ対岸には、2,900mのサンぺドロ火山、3,100mのトリマン火山、3,500mのアティトラン火山という三つのコニーデ型火山が聳えている。その三つの火山に挟まれた場所にサンティアゴ・アティトランは位置している。湖岸の集落の中で最も大きいサンティアゴ・アティトランは、グアテマラに22以上あるマヤ諸言語の一つツツヒル語圏の中心であり、住民の95%は、ツツヒル語を話すマヤ民族なのだ。
■ 政府軍からも左翼ゲリラからも干渉されない自治の町サンチャゴ・アティトラン
息を飲むほど美しいこの土地は、グアテマラの他のマヤの村々と同じく、グアテマラ政府軍と左翼ゲリラとの内戦の中で、その風光明媚さと裏腹な、陰惨な弾圧にさらされ続けた土地でもあるのだ。1960年から始った内戦は、次第に農村部にも波及し、アティトラン湖南岸の三つの火山の梺には、反政府ゲリラが潜伏し、1980年には、サンティアゴ・アティトランのすぐ南のコーヒー農園に政府軍の駐屯地がつくられた。政府軍は、少しでも豊かな暮らしを希望し協同組合活動などに取り組む地域のリーダーや、カトリック教会の宣教助手の村人などを、ゲリラとみなし、暗殺や拉致をくり返した。人口約4万人のサンティアゴで、殺された者と行方不明者は、2,000人にものぼったのである。
1990年12月には、拉致された村びとを返してくれるように要求した村びとに政府軍は無差別発砲し、子どもを含む13人が命を落とした。この事件を機会に、住民の若手リーダーは、海外のメディアに情報を流し、直接中央政府と交渉し、政府軍の駐屯地を撤去させることに成功したのである。そして、政府軍からも左翼ゲリラからも干渉されない地域独自の自警組織をつくり、自治を守ってきた。
現在のサンティアゴ・アティトラン市長、ディエゴ・イスキーナは、この自警組織を創設した代表者なのだ。1999年の選挙でマヤの市民政党から出馬し、当選したディエゴ市長による自治の取り組みを支援するため、日本の市民団体レコム(日本ラテンアメリカ協力ネットワーク)がサンティアゴ市に提案したのが、湖の過去と現在を比較し、現在の状況を認識し、湖と自分達の暮らしを再度見つめ直してもらうための写真展企画だった。現在の暮らしも記録し、過去の写真も探し出し、現在との比較撮影を試みる。私は、メンバーでもあるレコムからの依頼で2001年9月、2002年2月、の2ヶ月間滞在し、撮影してきた。
■ 湖の過去と現在を対比する写真展開催
多くの村びとの協力で、撮影は紆余曲折を経ながらも順調に進み、2002年12月、クリスマスの買い出しで賑わう中で、現地サンティアゴ市で今昔比較写真展は開催された。おそらく村ではじめての写真展なのだろう。オープン前から人が集まり、会場と同時に教室ほどの広さの展示場におよそ200人ほどが詰め掛けた。身近な風景と過去の写真、そこに写っている人々は、近所の知人であったり、おじいさんおばあさんであったり、もしくは本人が写ってもいるわけで、たいへんな盛り上がりをみせた。結局最終日の、12月30日まで連日この状態が続いたそうだ。写真展には10日間で約20,000人の村びとが観に来てくれた。
写真の被写体となってくれた一人に、ファナおばあさんがいる。観光客からつねにカメラを向けられ続け、許可なく撮影されるため、カメラを嫌がるサンティアゴの女性の中で、ファナおばあさんは、洗濯風景の撮影に好意的に協力してくれた一人だった。湖と共に生きる生活の写真に、洗濯風景と湖水の水汲みは必須の撮影項目だった。
カルデラ湖であるアティトラン湖周辺の土地は、火山性の浸透性の強い土地で、井戸を掘ることができない。河川もないため生活用水は全て直接湖水を使わざるを得ない。水道は約五割の家庭に普及しているが、ポンプで汲み上げた水が特に処理されることなくそのまま蛇口からでてくるのだ。約半数の水道のない家では、近所の家から分けてもらう(買い取る)か、直接、湖岸に水を汲みにいくか、を選択しているのである。水瓶は、焼き物からプラスチックに変わったが、その生活様式は、この湖岸に人々が生活するようになってから、営々と受け継がれてきたものなのだ。
2001年9月に撮影した写真をもって、2002年2月、彼女の家をたずね、再度の撮影をお願いした。
翌日、トウモロコシの茎でできた彼女の家に着くと、正式な髪飾りをつけ真新しい民族衣装で正装したファナおばあさんが出てきてくれた。ファナおばあさんの家もまだ水道はついていないので、洗濯と水汲みの場面の両方を撮らせてもらった。洗濯を終え、10リットル以上は入りそうな、水瓶を頭に載せ、70歳のファナおばあさんは、約1km離れた家まで、洗濯物を小脇に抱え、軽々と家まで運んだのである。
サンティアゴ・アティトランの人々にとって湖の水は、命の水そのものだった。ファナおばあさんに限らず、ほとんどの村人にとっても、体を流れているのは、アティトラン湖の水なのだ。マヤの伝統文化が生き続けるこの地は、あたりまえの日常として、トウモロコシを育て、機を織り、湖で洗濯し、湖水を汲み飲み続けている。ファナおばあさんたちの日常生活こそが、抵抗運動などと特別視することではない、マヤがマヤであり続ける根幹となっているのだ。
■ ハリケーン被害にも屈せず生き抜く人々
ここで話が終わると美しい物語りだが、現実は厳しい。私が写真展を開催した3年後、2005年10月はじめ、巨大ハリケーン、「スタン」が中米中に被害をもたらした。そして、ここサンティアゴ・アティトランがもっとも大きい被害を受けた。裏山にあたるトリマン火山の山頂の一部が崩れ、土石流となって、サンティアゴ郊外の一部落パナバフ地区を襲った。パナバフ地区は、5?6mの高さの土砂に埋まり、1,000名以上の住民が、湖まで流され、生き埋めとなり亡くなった。災害からしばらくは、湖の水を飲むことは禁止された。
政府から、グアテマラ陸軍が復興支援に派兵されたが、再選されたディエゴ市長を中心に、住民は人間の鎖をつくり、政府陸軍の侵入を拒否した。災害に会ったパナバフ地区は、1990年12月の無差別発砲事件のあったまさに同じ場所だったのだ。復興支援であっても、陸軍を村に入れるわけにはいかないという、住民の強い意志が示された。
私達の組織レコムも緊急復興支援キャンペーンを行って、支援物資の届いていない地区への食料などを支援した。
私は、その後まだサンティアゴ・アティトランを訪れていないが、もう彼等は、湖との信頼関係を復興させていて、この次の訪問時には元気な洗濯風景でもって迎えてくれると信じている。
(※編集注:筆者による写真は、プリント版の本誌にのみ掲載しています。)