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国際人権ひろば No.69(2006年09月発行号)

アジア・太平洋の窓 【Part1】

東ティモールの政治危機~ポスト・コンフリクトを見直す

松野 明久 (まつの あきひさ) 大阪外国語大学教授

■はじめに


  2006年の4月から6月にかけて、東ティモールは独立以来の危機にみまわれ、最後は首相の交代にまでいたった。国防軍内部の差別問題に端を発した危機は、30数名の犠牲者を出し、15万人近い国内避難民を生み出し、首都を荒廃させた。政権のリーダーシップは瓦解し、外国軍・警察の介入をもって治安を回復しなければならなかった。
  いったいどうしてこういうことになったのか。また、国連・国際社会がリードするかたちで進めてきた東ティモールにおける紛争後の平和構築に何が足りなかったのか。

■危機のプロセス


  発端は「国防軍において東部出身の司令官が西部出身の兵士を待遇・昇進において差別している」という西部出身の兵士たちの訴えだった。2月、400人もの兵士が兵舎を離れ、大統領に直訴した。差別の真相は明らかにされていないが、各方面の情報をつなぐと、兵士の訴えには実質があったと考えられる。差別が事実なら、政権としてはただちに対応しなければならなかったはずだ。ところが、マリ・アルカティリ政権は、訴えた兵士たちのいうことに耳を貸すどころか、解雇を発表した。
  600人に膨れ上がった抗議の兵士たちは、4月末デモを行った。しかしデモには便乗組もいて、これが市場を襲撃したり、車に火をつけたりと大暴れした。動員された警察が発砲し、数人の死者を出したところから、緊張が一気に高まった。さらに5月に入ると、憲兵隊長率いる兵士・警察が離脱した。彼らは首相退陣要求運動の急先鋒になり、やがては「反乱」の主役となっていく。
  「反乱兵」と国防軍(残留組)の衝突が懸念される中、人びとは避難し始めた。一方、この機に乗じた集団が略奪、放火、ライバルの襲撃などを行った。首都では西部出身者が東部出身者の家を放火したりといった事件が頻発し、多くの東部出身者が首都を逃げ出した。行政も経済も麻痺した。
  国民が悲鳴をあげている脇で、首相は、騒乱を自分をターゲットにした「陰謀」とみなし、自己の支持基盤固めに奔走した。最後は、首相・内相が与党フレテリンの民兵を密かに組織し、武装していたとの疑惑がもちあがり、民兵の指導者が内部告発したことで、首相の立場は決定的に悪くなった。6月末、大統領、閣僚からの辞任要求も強まって、マリ首相は辞任するにいたった。新首相はノーベル平和賞受賞者で外相をつとめていたジョゼ・ラモス・ホルタになった。

■国防軍問題


  問題のひとつは明らかに国防内部の状況にある。
  東ティモール国防軍は約1,700人。軍隊は無用との議論もあったが、1999年の民兵による騒乱で国防への必要性が高まり、創設にいたったという経緯がある。実際につくってみると、業務もほとんどなく、唯一それらしい国境警備は警察の仕事になっている。警察と軍隊はライバル関係にある。国防軍は自分たちの領域を警察に侵犯されていると感じてきた。
  独立派ゲリラが多数入った国防軍に対して、警察はインドネシア時代の警察官を多数再雇用している。国防軍はこれが気にくわない。独立のために闘ったゲリラは今や多数が失職しているのに、インドネシア警察につとめていた者が再雇用されている。「闘ったのはおれたちだ」「占領の協力者が利益をえるのはおかしい」との思いがある。今回、国防軍兵士が警察官12人をいきなり射殺するという事件(5月25日)がおきたことの背景にはこういうことがあった。

■東部と西部


  国防軍内でおきた東西対立とは何か。
  東部と西部の対立は、これまで聞いたことがなかった。東部(バウカウ、ビケケ、ラウテンの3県)は言語が違う、伝統社会が強いといった特徴に加え、ゲリラを長年にわたって支えていたという歴史がある。ゲリラの司令官は後半、東部出身者で占められるようになり、その状況はそのまま国防軍にも引き継がれた。
  こうした歴史を背景として、東部はフレテリンの強力な支持基盤となっている。一方、西部のエルメラ、アイレウ、アイナロ3県は主要3野党(民主党、社民党、社民協会)の支持基盤となっている。「反乱兵」たちが拠点としたのはこの3県だが、「反乱」と野党の支持基盤が一致しているのは偶然ではないだろう。今回の危機が早い段階でフレテリン(与党)と野党の対立という構図になったのもうなずける。
  一体、この間何が起きていたのか。おそらく、07年の選挙に向けてフレテリンが党勢拡大を図る中、国防軍の「フレテリン化」が進んでいたということだろう。フレテリンの一党支配志向の強さはよく知られている。公務員になるのにはフレテリンに入るのが早道だ。今回「反乱」を起した兵士たちは野党支持者とは言っていないが、少なくとも憲兵隊長はシャナナ派(つまりは野党系)であり、マリ・アルカティリを共産主義者呼ばわりするあたり、反フレテリンであることはまちがいない。
  それにしても、一旦、こうしたエスニック対立が煽られると、修復は簡単ではない。

■首相の人気


  マリはあまり国民に人気がない。実務派で近づき難い印象のマリは、ポピュラーでカリスマ的なシャナナ・グスマン大統領とは好対照だ。マリは人情味にかけ、皮肉が多く、ときに尊大なコメントを発する。ただ、オーストラリアを相手とした天然資源開発交渉では、東ティモールの利益を頑固に主張し、そのタフ・ネゴシエイターぶりが高く評価された。
  この間、マリには汚職・縁故主義の噂が常につきまとった。親族が武器納入業者として利益を上げたこと、家族を大使に任命したりしたことなどが問題とされてきた。野党民主党の党首がマリの汚職を批判すると、マリは検事総長に指示して「名誉棄損」(刑法)で彼を起訴させた。
  今回、マリの首相退陣を決定づけたのは、民兵武装疑惑だった。マリは今でも否定し続けているが、フレテリンの民兵がロバト内相から武器を受け取り、マリの自宅へ行って政敵排除、反乱兵抹殺の指示を受け取ったとオーストラリアのテレビに暴露した。これが真実かどうか、まだ調査が行われている。しかし、シャナナもラモス・ホルタもこの民兵指導者と直接会って話を聞き、その後、マリへの退陣圧力を強めた。市民のマリ退陣要求も最後はこの点の追及に収斂していた。

■失業と閉塞感


  首相退陣運動を支えたのは若者たちだった。若者たちは仕事がなく、フレテリンが優遇されている状況に閉塞感を募らせていた。政権トップはベテランの海外亡命政治家たちが占め、同じ世代でも亡命組はポルトガル語や英語ができるため、さまざまなポストが与えられた。独立派活動家でもフレテリンだと便宜をはかってもらえる。疎外されているのが、非フレテリン系独立派で、シャナナに直接繋がっていた地下活動家の諸グループだ。ポルトガル語の公用語化で疎外感も感じている。
  また、騒乱に乗じて略奪、放火、破壊行為などを行なった者たちがいる。とくに問題とされているのがマーシャル・アート・グループといって、空手などを学ぶグループが縄張り意識をもち半ばヤクザ集団化したものだ。

■ポスト・コンフリクトの見直し


  危機はとりあえず収拾された。しかし、この間の平和構築が表面的であったとのそしりは免れないだろう。
  まず、国防軍の問題については国連の責任が大きい。当初から警察と軍の対立は問題とされ、それはリクルートプロセスの不透明性、恣意性から発生しているとされてきた。
  次に、あれほどガバナンスを強調しながら、政府職員の中立性がまったく確保されなかった。公務員・軍人は政党活動を禁止するか、それから距離をおくよう制度的な誘導がなされるべきであり、まちがっても、フレテリンと公務員登用が今日言われるような関係になることは避けなければならなかった。
  そして、暴力集団の放置という問題だ。住民投票後、元ゲリラ兵を中心に暴力に訴えることが多かったが、政府はそれをうやむやにしてきた。というのも、それらはエリート同士の抗争であるため、真実を明らかにすることは政権エリートにとっても都合が悪かったのだ。その結果、騒げば「ボス交渉」が獲得できて、パワーシェアリングへの道が開けるという循環をつくってしまった。庶民はそんなエリートの抗争に右往左往させられた。
  結末は、政権エリートが自分たちの闇の部隊をつくって政敵の排除に乗り出そうとしていたということだから、平和の文化の創造など空々しいスローガンにすぎなかったということになる。
  こうした点を反省し、今後、改めてポスト・コンフリクトのあり方を練り直さなければならない。