アジア・太平洋の窓 【Part1】
マニラで犠牲者の写真を掲げ、政治的殺害のストップを呼びかける遺族ら (2006年6月10日 筆者撮影)
現在、フィリピン各地で、左派政治活動家、住民運動のリーダーやメンバー、また、ジャーナリストや教会関係者に対する暗殺、強制失踪、脅迫、いやがらせといった人権侵害が多発している。政治・社会活動を理由に暗殺される「政治的殺害」の犠牲者の数は2006年に入ってから急増しており、国際人権団体アムネスティ・インターナショナルは、2005年中の犠牲者が66人だったのに対し、2006年は7月末現在、すでに51人の犠牲者が出ていると報告している(2006年8月)[1]。
こうした人権侵害の背景として、比国軍、国家警察その他の治安部隊の関与が指摘されている。2002年に作成され、2003年に知られるところとなった比国軍の軍事作戦「オプラン・バンタイ・ラヤ(自由防衛作戦)」と、それに基づく軍の内部文書「汝の敵を知れ」がリークされたことにより、非武装市民・合法的な市民組織が軍事作戦の対象とされていることが明らかとなった。5年間の軍事作戦のなかでは、フィリピンで非合法とされている共産党-新人民軍(CPP-NPA)の「政治的下部組織」を壊滅させることが目的とされ、同文書では、具体的な市民団体、人権団体、宗教団体、ジャーナリストの団体などがリストアップされている。実際、そうした組織のリーダーや幹部が殺害されているのである。
比政府は、政治的殺害を容認する政府の方針はなく、治安部隊の関与については否定し続けている。また、警察や軍部も、政治的殺害を指示した事実はなく、事件のほとんどは、共産主義運動内部の派閥争いや内部粛清の文脈で武装勢力自身が犯したものだと主張している。それでも、2006年に入り、米国務省による世界の人権状況に関する2005年年次報告書のフィリピンに関するレポートのなかで、「比警察は最悪の人権侵害機関」と言及されたり、いくつかの政府や国際人権団体などからも政治的殺害に対する非難の声が相次いであげられ始めると、比政府は同年5月、国家警察内に政治的殺害と思われる事件を捜査するための「特別捜査班」(Task Force Usig)を組織した。その後、7月31日に各地で3件の政治的殺害が同日に起きたことを受け、8月には、メロ元最高裁判事を委員長とする独立調査委員会も設置されている。
しかし、政治的殺害の問題に取り組む地元のNGO・人権団体の目には、こうした政府の対応は国際批判対策の「リップ・サービス」にしか映らない。政府の取り組み後も、新たな犠牲者が出続けているからだ。地元の人権団体カラパタンの報告によれば、特別捜査班の設置された2006年5月に約700名だった犠牲者数は、11月には800名にまで達したという。「オプラン・バンタイ・ラヤ」は今でも着実に遂行されているのである。
私はこれまで、ルソン島北部のコルディリェラ地方から南はミンダナオ島まで、フィリピン各地の巨大開発事業の現場に足を運んできた。そこでは、立退きを強制されたり、生計手段を失った地元の農民や先住民族、また彼らを支援しているNGOのスタッフと行動を共にすることが多い。彼らは開発事業に反対の声をあげ、直面している問題について話し合う会合を村の中で開き、時には事業対象地での抗議活動を行う。現在、そうした村での活動にも政治的殺害の影響が見られるようになってきた。
中部ビサヤ地方のボホール州で、日本政府が資金を拠出している3つのダム灌漑事業の問題に取り組んでいる地元NGOのスタッフSさんは、農村での運動・活動の難しさをこう語った。
「国軍による『オプラン・バンタイ・ラヤ』のせいで、農村での問題の取り組みは確実に遅れている。特に、2006年9月7日に自分たちの仲間だったビクトール・オリバーが暗殺されてからは。日本の円借款で進められた灌漑事業では、借金を返せない農民の問題に対する取り組みを強化するつもりだった。借金の返済期限が今年2006年なので、土地の権利書を抵当に取られている農民らが、早ければ来年にも土地を失う可能性があるからだ[2]。そこで長年、農民の組織化に貢献してきたビクトールが8月頃からその地域の担当として、この問題に取り組むことになっていたんだ。でも、彼は銃殺されてしまった。村では、自分たちが新人民軍(NPA)であると中傷するビラまで軍が配っている」。
同郷出身の先輩としてビクトールさん(41歳)を長年慕ってきたSさんは、30代前半の若手スタッフだが、彼もまた、ビクトールさんと同じように、軍の「ヒット・リスト(暗殺リスト)」に名前が載っている活動家の一人である。リストに名前のあがっている活動家は、命の危険が伴うため、村での活動を極力控えなくてはならず、村での問題への取り組みに支障をきたす一因となっている。
私が知る限り、ボホール州で見られるように、開発事業への反対・不満の声をあげている農村地帯の住民リーダーらのほとんどが、「テロリスト」あるいは「NPA」といったレッテルを貼られ、軍や警察などによる家宅捜索などのいやがらせを受けた経験をもつ。また、農村地帯での事業対象地には、比国軍の駐屯地が付き物だ。それは治安対策・テロ対策として正当化されているが、「オプラン・バンタイ・ラヤ」の枠組みの中で実際に軍の掃討対象となっているのは、非武装の市民であり、まさに事業への不満を声高に叫んでいる住民らであることがしばしばである。
2006年5月16日に自分の農地の近くで2人組のオートバイの男に銃殺されたホセ・ドトンさんもその一人だった。ドトンさんは、日本の国際協力銀行(JBIC)の融資でルソン島北部に建設されたサンロケダムによって自分たちの生活が破壊されたことから、地元での反対運動を引っ張ってきた。しかし、彼が代表を務める農民団体はやはり「NPA」のレッテルを貼られ、また、彼が暗殺される数ヵ月前からは、自宅周辺で軍の諜報部員と思われる男らによる監視も行われていた。地元の農民団体にとって、自分たちの代表を突如失った痛手は余りにも大きく、また、軍・警察による同町でのパトロールも強化されているなか、なかなか思うような活動をできなくなっている。「明日は我が身」と恐怖感を抱くメンバーもおり、どのように今後の問題に取り組んでいくか、試行錯誤を続けている状況だ。
日本では2005年頃から教会関係者を中心に、フィリピンの政治的殺害をなくすための活動が始まった。2006年には、ドトンさんの所属する農民団体がダム事業に対する懸念を示す要請書を日本政府に提出した直後に暗殺事件が起きたこともあり、国会でも問題が議論されるようになった。こうしたなか、日本政府は当初、「一義的に比政府が解決すべき問題。比当局の捜査状況を待つ」という見解で、公式に懸念表明することを拒んできた。
しかし、日本各地でフィリピンの政治的殺害に関する報告会などが開催され、また、教会関係者、中部地方の市民、その他のNGOが各々全国的な署名活動を行うなど、個人・団体による活発な取り組みが続けられた。その結果、2006年11月には、国会で度重なる質問がなされ、日本政府が比政府に対し公式な懸念表明をするよう求める声が高まった。12月には、アムネスティ・インターナショナル日本など6団体が集めた署名1,325筆とともに、政治的殺害の即刻の停止と解決を比政府に求める要請書が在日フィリピン大使館に提出された。
こうした日本国内での動きを受けてか、12月8、9日にセブとマニラで行われた日比外相および首脳会談の場で、麻生外相と安倍首相が「比国内で多発している左派系活動家殺害などの人権侵害事件に強い懸念を表明した」ことが、多くのフィリピン現地紙で伝えられた。これは、「内政干渉」という理由の下、公式の場での懸念表明を避けてきた日本政府の大きな方針転換だと言える[3]。
しかし、状況がよくなる気配はいまだに見られない。日本政府が懸念を表明した2日後には、ソルソゴン州で、新たな政治的殺害が報告された。人権弁護士が裁判所からの帰宅途中に襲撃され死亡したのだ。この止まらない政治的殺害に対し、比政府のリップ・サービスではなく、真摯な対策を求め、国際社会からの引き続きの関心と比政府への一層の働きかけを今後も続けていく必要がある。
1. 日本語訳
2. 同灌漑事業では畑地を米作地に転換するプログラムがあり、その際にかかったブルドーザーなどの費用を農民が10年間かけてフィリピン灌漑庁に返済する仕組みになっている。しかし、灌漑用水が全体的に不足しているため、せっかく米作用地に転換したにもかかわらず、米を作れないという状況が見られ、収入を得られない農民は借金を返済できずにいる。
3. 外務省「外相会談概要」 「首脳会談(概要)」