特集・アジアと大阪の教育者が対話した「人権教育国際会議2006」 Part2
子どもの安全や学力水準に関して日本の人々や政府の懸念が高まりつつあることによって、人権教育の必要性も思い起こされる。
日本の学校における同和教育(人権教育)は差別されている被差別部落の子どもたちの教育保障に関する問題意識から始まった。教員たちはなぜ学校に来ない子どもたちがいるのか、あるいは通学し続けることができない子どもたちがいるのかということを理解しなければならなかった。そうして学校において同和教育の実践が始まったのである。
今日の世界は、日本で同和教育(人権教育)が始まった50年前とは大きく変わっている。しかし、教育界が対応しなければならない問題があるのは過去と同様である。日本およびアジアの他の国々からの教育者の中で、人権教育に関して基本的な問題が浮かび上がってきた。
「人権教育国際会議2006」で、「なぜ学校か」という疑問が提起されたのだが、それは意義深かった。人権教育における学校の重要性に立ち戻ることができたからである。
この問題は1998年、ヒューライツ大阪が南、東南および東北アジアで開催したワークショップにおいても出されている。その報告書は次のように答えている[1]。
なぜ、学校における人権教育プログラムを発展させる必要があるのかという疑問が時々持ち上がります。この疑問は二つの考えに起因しています。
一つは、人権に関するノン・フォーマル教育(社会教育と呼ばれるような決まった型がない教育。これに対しフォーマル教育は、学校教育をさす)こそが社会で起こっている諸問題に直接的に応える領域であり、人権教育が最も必要とされている形態であるという考えです。ノン・フォーマル教育は、社会で不利益を被っている、あるいは抑圧を受けている人々に直接的に関わります。
二つ目は、貧困が深刻なレベルにある国では学校は多くの子どもたちをカバーしていないという考えです。つまり、学校に行けない子どもたちのニーズは、学校のみに焦点をあてる人権教育では扱うことはできないということです。
これらの反論が妥当であることは間違いありません。人権についての議論がよりオープンになっている国では特に、ノン・フォーマルな人権教育プログラムに対する支援を維持していくこと、そしてさらに拡大していくことが必要でしょう。ノン・フォーマルな人権教育の分野の最前線で活動しているNGO(非政府組織)は、財政面だけではなく、法律や政策、プログラムなど政府の適切な支援を必要としているのです。
ここで強調しておきたいことは、学校に焦点をあてることは、ノン・フォーマルな教育における人権教育を軽視するとか注意を払わないということではありません。学校教育に焦点をあてることはアジアのいくつかの国において既に存在する人権教育プログラムを認識するだけではなく、フォーマルな教育システムとノン・フォーマルな教育システムの関係を明らかにし、共通のゴールに向かって相互にどのように作用することができるのかを明らかにすることになるのです。
学校における人権教育において重要なのは、学校と地域社会のダイナミックな関係です。現在、学校における人権教育プログラムは、教室で得た知識が学校という限定された領域だけではなく、学校を含む地域社会においてどのように実践されるかという点にますます関心が高まっています。その意味において、フォーマルな教育は地域社会から切り離された領域ではないのです。
つけ加えていえば、学校を卒業した生徒たちが政府、経済界など社会の中の組織において重要な地位に就くことは当然あり得ることです。彼らがどのような人権意識を持つかが人権の擁護あるいは人権の抑圧に直接影響を与えるのです。したがって、学校での人権教育プログラムでは、人権侵害を被りやすい貧困者や弱者グループと同様に、彼らに対しても注意が注がれるべきなのです。このように、学校における人権教育は、ノン・フォーマルな教育の基礎的プログラムと無関係ではありません。適切に結びつけば学校における人権教育は地域社会で発生している問題を解決するための努力を支える重要な力にもなるのです。
日本の学校でも人権教育の活動を地域と結びつける取り組みの例がみられる。他の学校がこのような経験から学び、さらに発展させることが重要である。
教員研修をテーマとした分科会の議論の中で出された関連する問題として、「教育への権利」と「人権教育」との関係がある。人権教育を始める前に教育への権利がまず十分に充足されなければならないと考える傾向がある。アジア諸国の一部の政府にとって、すべての子どもを学校に入れることが教育の第一義的(暗に唯一の)目的であると主張することが人権教育を回避する良い方法となっている。この分科会では、ラオス教育省のシサモネ・シティラホンサさんが「教育への権利に限定するアプローチ」をあげた。しかし、ネパール教育省のソビエト・ラム・ビスタさんは、武力紛争の影響を受け、回復しつつある学校においてでも人権教育を促進する努力が行われていることを述べて反論した。
教員研修に関する分科会のもよう (撮影:金井宏司)
教育への権利は人権教育に反しないし、その逆もそうである。両方とも同じ人権によって定義づけられる「教育」を扱う。人の潜在可能性を十分に発展させる教育と人権の尊重を促進する教育である。また、すべての社会の目標である質の高い教育にも人権の学習が含まれる。いずれも他の一部となっているのである。したがって、人権教育は学校が存在する限り行わなければならず、あるいはたとえクラスが一つしかなくても、生徒が一人しかいなくても存在しなければならない。生徒が学校に来ているというだけでは十分ではない。生徒が自分たちの権利および自由を(責任とともに)理解し享有することを確保する必要がある。そして権利の享有は危害(いじめや自殺)から守られ、適切に学習に導かれることで可能になる。
教育を既に享有している子どもの中で人権を侵害されている子どもがいるのは皮肉なことである。不登校、いじめや自殺など現在の学校が抱える問題が、家庭、学校あるいは両方でトラウマとなるような経験が原因となっているのは恐ろしい。マレーシアのチャム・ヘン・ケンさん(国家人権委員会委員)と韓国のクァク・スッキさん(アジア・太平洋国際理解センター)による競争的な教育およびそれがもたらす問題に関する報告は日本だけでなく、他のアジアの諸国にとっても関係がある。
どの社会においても教育は子どもの発育にとって重要な部分と見なされている。子どもの創造力やイニシアティブを握り潰す、あるいはさらに生きることへの関心を失わせることなど想定していない。しかし、知識を重視した、試験志向のストレスの多い教育は試験で良い成績をもたらすかもしれないが、生徒の社会的および他の力に影響を与える可能性もある。注意が払われないと、成長した後暴力を振るったり、社会から引きこもったり、精神を患うこともある。これが、「負けたくない文化」(シンガポールおよびマレーシアでキーアスーといわれる)である。子どもを守るためには何をすればよいのだろうか。人権教育は何をすればよいのだろうか。
人権教育は国際的に合意された教育の定義に従って促進されなければならない。そしてそのような定義が人権に基づいていることは容易にみることができる。マレーシアのチャム・ヘン・ケンさんが子どもの権利条約の規定を指摘した際、この点で子どもの状況について最も重要な規定をあげた。条約に基づいて教育の定義や目的を想起することは重要である。教育は次のことを指向する[2]。
(a) | 児童の人格、才能並びに精神的及び身体的な能力をその可能な最大限度まで発達させること |
(b) | 人権及び基本的自由並びに国際連合憲章にうたう原則の尊重を育成すること |
(c) | 児童の父母、児童の文化的同一性、言語及び価値観、児童の居住国及び出身国の国民的価値観並びに自己の文明と異なる文明に対する尊重を育成すること |
(d) | すべての人民の間の、種族的、国民的及び宗教的集団の間の、並びに原住民である者の間の理解、平和、寛容、両性の平等及び友好の精神に従い、自由な社会における責任ある生活のために児童に準備させること |
(e) | 自然環境の尊重を育成すること |